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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
遠藤宗家 甲賀屋敷
2020年11月01日
遠藤宗家が所属していた甲賀百人組は、德川家康公が江戸城に入府してから青山百人町にあった青山甲賀屋敷(現在の表参道駅にある善光寺周辺に位置する)、千駄ヶ谷甲賀屋敷(現在の千駄ヶ谷にある国立競技場)、青山権田原の鉄砲演習場を幕府から拝領した。
≪ 青山甲賀町 》
【 起 立 】 江戸期
【 廃 止 】 1872(明治5)年7月
【 冠 称 】 青山
【 後 身 】 千駄ヶ谷甲賀町
【 現町名 】 新宿区霞ヶ丘町
【 概 要 】
甲賀組百人組はかつて、武蔵国豊島郡千駄ヶ谷村に居住していた。『大江戸今昔めぐり』には、「青山甲賀百人組大縄地」、「青山甲賀百人組与力同心大縄地」等と記載されている。
甲賀組を率いた江戸時代初期の大名で、常陸国古渡藩の初代藩主の山岡景友は、関ヶ原合戦後、敗走してくる長束正家を討ち取り、方々にあった敵の城を請け取って戦後処理を手際よく済ませ、家康公を感服させた。この功により甲賀衆は、13,000石を賜り、これが甲賀組の起源となったと記されている。当時、近江の甲賀水口は鉄砲、火薬製造の盛んな所だった。
その後、甲賀衆は大阪冬の陣、夏の陣でも活躍し、この戦いの際、当時としては最高の性能を有した大砲を製造していた。射程距離は5km程を誇っていた。この甲賀組の製造した大砲は戦前まで靖国神社に展示されていた。甲賀百人組は当地に居住し、江戸城の大手門にある百人番所にて警備していた。青山権田原に射撃場を拝領し、鉄砲の訓練に勤しんでいた。当時はその土地一帯を「青山甲賀町」と呼んだ。
鳩森八幡神社には甲賀稲荷社が合祀されているが、昔は青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座し、遠藤宗家甲賀百人武士等が崇敬していた社である。1885(明治18)年に青山練兵場設置のため、境内を鳩森八幡神社に遷座して合祀された。1945(昭和20)年3月の戦災で社殿を焼失し、本殿の中に八幡神宮、諏訪大神とともに祀られていた。しかし復興を望む声が高まり、1970(昭和45)年に欅造りの社殿が完成し遷座された。
昭和初期に神主であられた矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、この鳩森神社も甲賀百人組と縁のある神社で、1938(昭和13年)5月に神社の前に安置した神像の中から、『御修覆記』並びに『奉納、甲賀百人姓名書』が発見された。
この文書は、1847(弘化4年)のもので甲賀百人組が米と金を寄進したという記事が伝えられている。その中に【御納戸同心 遠藤左太夫】と記されており、明治時代に高徳寺檀家総代、甲賀稲荷神社氏子大惣代を務めた遠藤宗家 第十五代当主 遠藤榮の祖父である、遠藤宗家 第十三代当主にあたる。
1872(明治5)年7月、「千駄ヶ谷甲賀町」として起立し消滅。
≪ 千駄ヶ谷甲賀町 ≫
【 起 立 】 1872(明治5)年7月
【 廃 止 】 1891(明治24)年3月17日
【 冠 称 】 1879(明治12)年まで「千駄ヶ谷」
【 現町名 】 新宿区霞ヶ丘町
【 概 要 】
武蔵国豊島郡野方領千駄ヶ谷村。江戸期に甲賀組の屋敷地となり、「青山甲賀町」と称した。1872(明治5)年7月、起立。同年の戸数41・人口196(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府四谷区に編入。しかし、1879(明治12)年9月27日これらは四谷区から千駄ヶ谷村へ編入され、東京府豊島郡千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷字甲賀町となる。甲賀組は伊賀組とともに江戸初期には半蔵門内外に組屋敷があったが、後に上地されて青山等に代地を給された。当町もその代地の1つであった。
1889(明治22)年5月1日、町村制施行に伴い、四谷区と南豊島郡の境界を再度変更。千駄ヶ谷村の一部となった字大番町、字西信濃町、字池尻、字霞岳、字川向、字火薬庫前とともに、再び四谷区(東京府東京市)へ呼び戻された。1891(明治24)年3月18日、「四谷霞岳町」という名称の新設町に編入となり消滅。
≪ 四谷霞岳町 ≫
【 起 立 】 1879(明治12)年4月
【 廃 止 】 存続「霞岳町」、「霞ヶ丘町」
【 冠 称 】 1911(明治44)年4月30日まで「四谷」
【 現町名 】 新宿区霞岳町、霞ヶ丘町、南元町
【 概 要 】
豊島郡野方領千駄ヶ谷村北部の俗称で「霞村」といった。国立霞ヶ丘競技場の西側に「遊女の松」という古木があって天然記念物だった。この松ノ木はその昔「霞の松」と呼ばれ、『新宿区町名誌』によると霞は縄張りのことだから青山氏との境界の目印としたものか、新たに植えたものだろうという。奥州街道の関屋(関所)があったといい「旭の関」といったという。こちらは千代田区の霞ヶ関と違って日本武尊の伝承はない。「よつやの原」が朝霧の立つところだった。港区を流れる古川の源流が流れていた。
江戸時代は千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷甲賀町。1872(明治5)年5月に千駄ヶ谷町が千駄ヶ谷一丁目~三丁目となる(当町域は千駄ヶ谷一丁目)。1878(明治11)年11月2日、東京府四谷区に所属。しかし1879(明治12)年4月には千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷甲賀町が東京府南豊島郡千駄ヶ谷村に編入され、字霞岳・川向・甲賀町となる。さらに1889(明治22)年5月1日、東京市市制施行。
1891(明治24)年3月18日、千駄ヶ谷村字霞岳・川向・甲賀町は東京府東京市四谷区に編入され、「四谷霞岳町」となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都四谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。
2003(平成15)年9月、住居表示の実施により、霞岳町のほぼ全域と南元町の一部が「霞ヶ丘町」となる。尚、当該住居表示実施後は、四谷警察署信濃町交番(霞岳町無番地)の所在地のみが「霞岳町」として残存。
町域の主要部分を明治神宮外苑と都立明治公園が占め、明治神宮外苑内の国立霞ヶ丘競技場、明治神宮野球場、聖徳記念絵画館等が当町域に属する。ただし明治神宮外苑のうち、南部の秩父宮ラグビー場や銀杏並木付近などは港区北青山に属する。
町域南西部には、都営霞ヶ丘アパート(霞ヶ丘団地)があったが、当町の居住人口は同アパートの住民のみだったと考えられる。1946(昭和21)年に100戸の都営住宅として長屋形式で建てられ、1964(昭和39)年の東京オリンピックに際して1960年代に建て替えられた(10棟300戸)。多くはオリンピック前からの霞ヶ丘の住民で、開催に合わせて立ち退き、このアパートに入居になった。現在、新国立競技場建設の敷地拡張によって、取り壊されてしまっている。元は兵舎があった土地で、馬小屋も戦争で被害に遭い、馬頭観音だけが残っている。
画像:甲賀稲荷神社
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
≪ 青山甲賀町 》
【 起 立 】 江戸期
【 廃 止 】 1872(明治5)年7月
【 冠 称 】 青山
【 後 身 】 千駄ヶ谷甲賀町
【 現町名 】 新宿区霞ヶ丘町
【 概 要 】
甲賀組百人組はかつて、武蔵国豊島郡千駄ヶ谷村に居住していた。『大江戸今昔めぐり』には、「青山甲賀百人組大縄地」、「青山甲賀百人組与力同心大縄地」等と記載されている。
甲賀組を率いた江戸時代初期の大名で、常陸国古渡藩の初代藩主の山岡景友は、関ヶ原合戦後、敗走してくる長束正家を討ち取り、方々にあった敵の城を請け取って戦後処理を手際よく済ませ、家康公を感服させた。この功により甲賀衆は、13,000石を賜り、これが甲賀組の起源となったと記されている。当時、近江の甲賀水口は鉄砲、火薬製造の盛んな所だった。
その後、甲賀衆は大阪冬の陣、夏の陣でも活躍し、この戦いの際、当時としては最高の性能を有した大砲を製造していた。射程距離は5km程を誇っていた。この甲賀組の製造した大砲は戦前まで靖国神社に展示されていた。甲賀百人組は当地に居住し、江戸城の大手門にある百人番所にて警備していた。青山権田原に射撃場を拝領し、鉄砲の訓練に勤しんでいた。当時はその土地一帯を「青山甲賀町」と呼んだ。
鳩森八幡神社には甲賀稲荷社が合祀されているが、昔は青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座し、遠藤宗家甲賀百人武士等が崇敬していた社である。1885(明治18)年に青山練兵場設置のため、境内を鳩森八幡神社に遷座して合祀された。1945(昭和20)年3月の戦災で社殿を焼失し、本殿の中に八幡神宮、諏訪大神とともに祀られていた。しかし復興を望む声が高まり、1970(昭和45)年に欅造りの社殿が完成し遷座された。
昭和初期に神主であられた矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、この鳩森神社も甲賀百人組と縁のある神社で、1938(昭和13年)5月に神社の前に安置した神像の中から、『御修覆記』並びに『奉納、甲賀百人姓名書』が発見された。
この文書は、1847(弘化4年)のもので甲賀百人組が米と金を寄進したという記事が伝えられている。その中に【御納戸同心 遠藤左太夫】と記されており、明治時代に高徳寺檀家総代、甲賀稲荷神社氏子大惣代を務めた遠藤宗家 第十五代当主 遠藤榮の祖父である、遠藤宗家 第十三代当主にあたる。
1872(明治5)年7月、「千駄ヶ谷甲賀町」として起立し消滅。
≪ 千駄ヶ谷甲賀町 ≫
【 起 立 】 1872(明治5)年7月
【 廃 止 】 1891(明治24)年3月17日
【 冠 称 】 1879(明治12)年まで「千駄ヶ谷」
【 現町名 】 新宿区霞ヶ丘町
【 概 要 】
武蔵国豊島郡野方領千駄ヶ谷村。江戸期に甲賀組の屋敷地となり、「青山甲賀町」と称した。1872(明治5)年7月、起立。同年の戸数41・人口196(府志料)。1878(明治11)年11月2日、東京府四谷区に編入。しかし、1879(明治12)年9月27日これらは四谷区から千駄ヶ谷村へ編入され、東京府豊島郡千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷字甲賀町となる。甲賀組は伊賀組とともに江戸初期には半蔵門内外に組屋敷があったが、後に上地されて青山等に代地を給された。当町もその代地の1つであった。
1889(明治22)年5月1日、町村制施行に伴い、四谷区と南豊島郡の境界を再度変更。千駄ヶ谷村の一部となった字大番町、字西信濃町、字池尻、字霞岳、字川向、字火薬庫前とともに、再び四谷区(東京府東京市)へ呼び戻された。1891(明治24)年3月18日、「四谷霞岳町」という名称の新設町に編入となり消滅。
≪ 四谷霞岳町 ≫
【 起 立 】 1879(明治12)年4月
【 廃 止 】 存続「霞岳町」、「霞ヶ丘町」
【 冠 称 】 1911(明治44)年4月30日まで「四谷」
【 現町名 】 新宿区霞岳町、霞ヶ丘町、南元町
【 概 要 】
豊島郡野方領千駄ヶ谷村北部の俗称で「霞村」といった。国立霞ヶ丘競技場の西側に「遊女の松」という古木があって天然記念物だった。この松ノ木はその昔「霞の松」と呼ばれ、『新宿区町名誌』によると霞は縄張りのことだから青山氏との境界の目印としたものか、新たに植えたものだろうという。奥州街道の関屋(関所)があったといい「旭の関」といったという。こちらは千代田区の霞ヶ関と違って日本武尊の伝承はない。「よつやの原」が朝霧の立つところだった。港区を流れる古川の源流が流れていた。
江戸時代は千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷甲賀町。1872(明治5)年5月に千駄ヶ谷町が千駄ヶ谷一丁目~三丁目となる(当町域は千駄ヶ谷一丁目)。1878(明治11)年11月2日、東京府四谷区に所属。しかし1879(明治12)年4月には千駄ヶ谷一丁目、千駄ヶ谷甲賀町が東京府南豊島郡千駄ヶ谷村に編入され、字霞岳・川向・甲賀町となる。さらに1889(明治22)年5月1日、東京市市制施行。
1891(明治24)年3月18日、千駄ヶ谷村字霞岳・川向・甲賀町は東京府東京市四谷区に編入され、「四谷霞岳町」となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都四谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都新宿区に所属。
2003(平成15)年9月、住居表示の実施により、霞岳町のほぼ全域と南元町の一部が「霞ヶ丘町」となる。尚、当該住居表示実施後は、四谷警察署信濃町交番(霞岳町無番地)の所在地のみが「霞岳町」として残存。
町域の主要部分を明治神宮外苑と都立明治公園が占め、明治神宮外苑内の国立霞ヶ丘競技場、明治神宮野球場、聖徳記念絵画館等が当町域に属する。ただし明治神宮外苑のうち、南部の秩父宮ラグビー場や銀杏並木付近などは港区北青山に属する。
町域南西部には、都営霞ヶ丘アパート(霞ヶ丘団地)があったが、当町の居住人口は同アパートの住民のみだったと考えられる。1946(昭和21)年に100戸の都営住宅として長屋形式で建てられ、1964(昭和39)年の東京オリンピックに際して1960年代に建て替えられた(10棟300戸)。多くはオリンピック前からの霞ヶ丘の住民で、開催に合わせて立ち退き、このアパートに入居になった。現在、新国立競技場建設の敷地拡張によって、取り壊されてしまっている。元は兵舎があった土地で、馬小屋も戦争で被害に遭い、馬頭観音だけが残っている。
画像:甲賀稲荷神社
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。