遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤宗家 甲賀稲荷神社

2020年11月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曾祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家(宮内庁 大正天皇侍従)は、甲賀稲荷神社の戦前氏子大惣代であった。甲賀稲荷神社は、昔は青山権田原の御鉄砲場付近に鎮座しており、甲賀組屋敷に住んでいた遠藤宗家の先祖が所属していた甲賀百人組、武士等が崇敬していた。この甲賀組とは、近江国甲賀郡の郷土で、徳川幕府に縁故のある者を一隊とした鉄砲組で、幕府にはこの外、伊賀組、根来組、二十五騎組の四組の鉄砲方があり、甲賀、伊賀の同心が百人所属していたことから、百人組とも称した。

昭和13年(1938年)5月に当社の神前に安置した随身像二軀の内、向かって左方の神像を修復した時、その胎内より次の『御修覆記』並びに『奉納、甲賀組百人姓名書』が発見された。この修覆記と共に発見された甲賀百人衆の姓名が連書されており、その中に「御納戸同心 遠藤左太夫」とあるのは、遠藤宗家第十三代当主である。

旧千駄ヶ谷五丁目千二番地(明治12年:東京府豊島郡千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷字甲賀町)に居住していた遠藤榮 遠藤宗家第十五代当主(宮内庁 大正天皇侍従)は、至誠をもって二十数年間、神社に奉仕された人格者であると昭和初期に鳩森八幡神社の神主であられた矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』及び『千駄ヶ谷の歴史』に記述されている。

また、甲賀組の百人衆が鳩森八幡神社を崇敬した記録は、月山和尚の『年中行事』手記に「八幡宮 御供米 甲賀百人組より、御供米は永代二月、白米五斗、五月五斗、十月五斗に、金三百疋奉納の節、諸役掛りの者、古は六人位、今は拾人乃至拾弐人位来る。餐応。」として、精進料理の膳立てが克明に書かれている。その他、瑞円寺の古文書によると、奉納覚え書と、同じく返納書の二通がある。

【 御修覆記 】
昔時従 甲賀組 千駄ヶ谷 
八幡宮随身、豊櫛両磐間戸軀奉納之元、起年等
不詳、博聴宝暦寛政之度奉修復、其後文化六乙已年
九月加修補、又今年拝殿新規至成功時、尚営重複
並み内陣紅綿、水引、華髪鬘及神前戸帳三懸、玉簾等為奉
納之、猶願主記姓名、随身収胎中永武運繁栄、家屋
安全之為祈願者也。 
弘化四丁末年九月吉日
請書 開眼 別当 瑞円禅寺 沙門玄海 
願主 甲賀組中 世話人組頭 並月番役人
 修補 仏師 吉見庄之助清哲

【 文久の武鑑 】
     勝田伊賀守 与力五騎 同心三十人 
              組 屋 敷 
               青山ごんだ原

【 嘉永三年(1850年)の武鑑 】
  「御鉄砲百人組の頭」
     溝口讃岐守、甲賀組、組屋敷、青山、甲賀町、大久保、
     十騎町
     戸田隼人正、二十五騎、組屋敷、よつや

  「諸御役代々記」百人組組頭の条
     甲賀組 与力 弐拾五騎 同心百人

この青山甲賀町の組屋敷は、遠藤宗家に属する甲賀同心百人組の居住していた場所である。

※画像は、鳩森八幡神社の末社甲賀稲荷神社(戦前)


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。