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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
東京都渋谷区初台(武蔵国豊島郡代々木村)
2020年12月19日
江戸城を築城したことで有名な太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。
武蔵国豊島郡の代々木村(藩政村としての代々木村〈武州御料地 代々木村〉及び近代行政村としての代々木村〈東京府南豊島郡代々木村〉の前身に当たる自然村・代々木村)に築いた8か所の砦のうち、一の砦(狼煙台)のあった場所が「初台」と呼ばれるようになったとの説がある。
天正18年(1590年)徳川家康公が江戸城に入ってからも、この辺は江戸の郊外の農村であった。また、安土桃山時代の末、土井利勝の弟・土井昌勝の妻で徳川秀忠の乳母でもある初台局(はつだいのつぼね)が天正19年(1591年)に下賜された代々木村内の200石の所領にゆかりがあるとの説もある。
五街道の一つ、甲州街道は正しくは甲州道中と呼ばれ、日本橋を起点として日本橋通り東海道と分かれ、日比谷から半蔵門を左折して四谷・内藤新宿・代々木・幡ヶ谷を通って甲府まで道中三十四次、さらに下諏訪で中山道に合している。宿場は内藤新宿の次が上高井戸であるが、幡ヶ谷新町には小休場があった。
甲州街道に並行してつくられたのが、旧玉川上水で、松平伊豆守信綱を総奉行、伊奈半十郎忠治を水道奉行として承応2年(1652)四月、庄右衛門・清右衛門兄弟によって着工され、取水口の羽村から42Kmの四谷大木戸まで掘割を作り上水を引くという大工事であった。その水路は武蔵野台地の中央分水背をたくみにたどっている。現在の新宿御苑の北東部に水番所があり、ここから石樋や木樋を地中に埋めて江戸市中に給水した。明治3年から5年まで村々の産物を運ぶ通船が許されたこともあった。
江戸末期のこの地域は、渋谷や千駄ヶ谷に比べて武家地は少なかった。幡ヶ谷村には、唐津藩の小笠原家、松江藩の松平家の抱屋敷があり、代々木村には三春藩の秋田家、高槻藩の永井家、 旗本の林家、彦野藩の井伊家、陸奥長瀞藩の米津家など、いずれも抱屋敷・下屋敷であった。幡ヶ谷村は東西23町(約2.5km)、南北八町(約0.9km)余り、家数138戸。代々木村は東西30町(約3.3km)、南北25町(約2.7km)、家数166戸という寒村であった。
※画像:代々木八幡宮
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
武蔵国豊島郡の代々木村(藩政村としての代々木村〈武州御料地 代々木村〉及び近代行政村としての代々木村〈東京府南豊島郡代々木村〉の前身に当たる自然村・代々木村)に築いた8か所の砦のうち、一の砦(狼煙台)のあった場所が「初台」と呼ばれるようになったとの説がある。
天正18年(1590年)徳川家康公が江戸城に入ってからも、この辺は江戸の郊外の農村であった。また、安土桃山時代の末、土井利勝の弟・土井昌勝の妻で徳川秀忠の乳母でもある初台局(はつだいのつぼね)が天正19年(1591年)に下賜された代々木村内の200石の所領にゆかりがあるとの説もある。
五街道の一つ、甲州街道は正しくは甲州道中と呼ばれ、日本橋を起点として日本橋通り東海道と分かれ、日比谷から半蔵門を左折して四谷・内藤新宿・代々木・幡ヶ谷を通って甲府まで道中三十四次、さらに下諏訪で中山道に合している。宿場は内藤新宿の次が上高井戸であるが、幡ヶ谷新町には小休場があった。
甲州街道に並行してつくられたのが、旧玉川上水で、松平伊豆守信綱を総奉行、伊奈半十郎忠治を水道奉行として承応2年(1652)四月、庄右衛門・清右衛門兄弟によって着工され、取水口の羽村から42Kmの四谷大木戸まで掘割を作り上水を引くという大工事であった。その水路は武蔵野台地の中央分水背をたくみにたどっている。現在の新宿御苑の北東部に水番所があり、ここから石樋や木樋を地中に埋めて江戸市中に給水した。明治3年から5年まで村々の産物を運ぶ通船が許されたこともあった。
江戸末期のこの地域は、渋谷や千駄ヶ谷に比べて武家地は少なかった。幡ヶ谷村には、唐津藩の小笠原家、松江藩の松平家の抱屋敷があり、代々木村には三春藩の秋田家、高槻藩の永井家、 旗本の林家、彦野藩の井伊家、陸奥長瀞藩の米津家など、いずれも抱屋敷・下屋敷であった。幡ヶ谷村は東西23町(約2.5km)、南北八町(約0.9km)余り、家数138戸。代々木村は東西30町(約3.3km)、南北25町(約2.7km)、家数166戸という寒村であった。
※画像:代々木八幡宮
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。