遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

太田道灌公追慕之碑

2020年12月21日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。

東京市の牛塚虎太郎市長は、昭和11年7月26日 江戸城虎ノ門にある石垣の一部を利用して造った「太田道灌公追慕之碑」を建立した。

江戸城築城550年目に当たり、平成19年9月25日に主催:江戸天下祭実行委員会、千代田区、千代田区観光協会。共催・後援団体:特定非営利活動法人江戸城再建を目指す会、太田道灌公墓前祭実行委員会等による除幕式が行なわれた。除幕式には、太田資暁太田道灌第十八代、石川雅己千代田区長、高木茂千代田区観光協会会長等が参加した。


【 所在地 】千代田区一ツ橋1-1先
【 建碑年 】1936年(昭和11年)7月26日
【 原 文 】
太田道灌公追慕之碑 
寛正五年春江戸ノ城将太田道灌公カ上洛
参朝ノ際居城ニ就キ 勅問ニ奉答シタル
ノ歌ニ我庵は松原つつき海ちかく富士の
高嶺を軒端にぞ見るノ一首アリ城ハ東ニ
川ヲ帯ビ南ハ海ニ臨ミ西ハ丘陵起伏シテ
遥ニ富士ノ秀峰ヲ仰ク歌ハ誠ニ能ク其ノ
景勝要害ヲ盡クセリ公名ハ持資関東管領
上杉定正ノ重臣タリ幼ニシテ聰邁尊王ノ
志ニ篤ク文武ノ道ニ通シ兵馬ノ技ニ精シ
ク築城ノ術ニ長セリ長禄元年城ヲ江戸氏
ノ館址ニ築キテ百代名城ノ基ヲ創メタリ
爾来此ニ居ルコト三十年能ク主家ヲ扶ケ
テ英名大ニ振ヒ八州ノ群豪風ヲ望ンデ來
リ従ウ常ニ力ヲ民治ニ效シ文事ヲ奨メ徳
化四周ニ普ク遠近ノ士庶陸続トシテ來往
シ店舗軒ヲ連ネ船舶河口ニ集ル文明十八
年公ハ讒ニ遭ヒテ相州糟屋ノ主家ニ斃レ
タリト雖其ノ城池ハ依然トシテ関東第一
ノ形勝タリ徳川氏ノ覇府ヲ経テ明治ノ 
聖代ニ及ヒ畏クモ 皇居ヲ此ニ奠メラレ
江戸ハ東京ト改稱セラレテ日ニ月ニ殷賑
ヲ加ヘ今ヤ世界第二ノ大都市トナレリ是
レ実ニ端ヲ公ノ築城ニ發シタルモノニシ
テ千古不朽ノ功業ナリト謂ウヘシ
茲ニ公ノ四百五十年祭ヲ行ウニ方リ碑ヲ
旧城ノ邊ニ建テ市民ノ永ク遺徳ヲ追頌ス
ルヲ資セントス

 昭和十一年七月二十六日
 東京市長 牛塚虎太郎


【 訳 文 】
太田道灌公追慕の碑 
寛正5年春、江戸の城将太田道灌公上洛参朝の際、居城に就き勅問に奉答したる歌に「我庵は松原つづき海ちかく富士の高嶺を軒端にぞ見る」の一首あり。城は東に川を帯び、南は海に臨み、西は丘陵起伏して遥に富士の秀峰を仰ぐ。歌は誠に能く其の景勝要害を尽くせり。公、名は持資、関東管領上杉定正の重臣たり。幼にして聡邁尊王の志に篤く、文武の道に通じ兵馬の技に精し、又築城の術に長ぜり。長禄元年、城を江戸氏の館址に築きて百代名城の基を創めたり。爾来此処に居ること三十年、能く主家を扶けて英名大に振ひ、八州の群豪風を望んで来り従ふ。常に力を民治に効し文事を奨め、徳化四周に普く遠近の士庶陸続として来住し、店舗軒を連ね船舶河口に集る。文明十八年、公は讒に遭ひて相州糟屋の主家に斃れたりと雖も、其の城池は依然として関東第一の形勝たり。徳川氏の覇府を経て明治の聖代に及び畏くも皇居を此に奠められ江戸は東京と改称せられて、日に月に殷賑を加へ、今や世界第二の大都市となれり。是れ実に端を公の築城に発したるものにして、千古不朽の功業なりと謂ふべし。公の四百五十年祭を行ふに方り碑を城の辺に建て、市民の永く遺徳を追頌するに資せんとす。

昭和十一年七月二十六日 
 東京市長 牛塚虎太郎

≪ 江戸城築城550年記念の標 ≫ 
江戸城築城 五五〇年に当たって 

左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後四五〇年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(一四五七年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度五五〇年に当たります。この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標(しるし)とします。

太田道灌(一四三二~八六)は、室町中期の武将で歌人。名は、資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。一四五七年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、三〇数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された、江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。

千代田区観光協会(協力)

七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき

平成一九年九月二十五日
千代田区


※画像:太田道灌公追慕之碑 
    江戸城築城 五五〇年に当たって 


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。