遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

榊庄右衛門 長府藩毛利家家臣 

2021年01月06日
遠藤 潔 第十八遠藤宗家の母方先祖である榊庄右衛門は、現在の山口県下関市長府に江戸時代に存在した藩のひとつである長府藩毛利家家臣であった。

初代長府藩主毛利秀元は、慶安3年(1650年)に江戸藩邸を設けた。元禄14年3月14日 (1701年)赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で、高家吉良上野介義央に斬りつけたとして、長矩が切腹に処せられた。

毛利綱元が長府藩主であった元禄15年(1702年)亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った赤穂事件が起きた。

吉良義央邸に討ち入った赤穂浪士の岡嶋八十右衛門ら10人が藩邸にお預けになり、徳川幕府の沙汰を待った。元禄16年(1703年)2月4日 彼らの切腹の際、介錯したのは毛利家家臣である榊庄右衛門であった。その際に介錯に使用された刀は、靖国神社に奉納されている。

介錯の不手際は切腹人を苦しめるのみならず、面目を失する行為とされたため、介錯人は通例として剣の腕の立つ者が選ばれた。介錯は、居合道の形として現代でも伝承が続いている。介錯の形を伝える流派は、無双直伝英信流(無雙神傳英信流、夢想神伝流)に並流された大森流などである。夢想神伝流では順刀とも呼ばれる。

靖国神社の起源は、明治維新期の倒幕派と幕府派との戦い「戊辰戦争」で命を落とした薩摩(現在の鹿児島県)や長州(現在の山口県)の新政府軍の兵士を顕彰し、慰霊するために、明治2年(1869年)に「明治天皇」の勅令のもと、皇居の隣にある東京・九段坂に「東京招魂社」を創建したのが始まりである。

その後、明治12年(1879年)に、現在の「靖国神社」に改められた。「靖国」という社号は、「靖(安)らかに国を治める」という意味で明治天皇が命名。「祖国を平安にする」、「平和な国家を建設する」という願いが込められている。


※画像:『義士四十七図 岡島八十右衛門常樹』(尾形月耕画)


■ 榊庄右衛門
遠藤宗家親戚(遠藤寛 遠藤宗家第十七代当主の妻郁子の母橋本スエ子(旧姓榊)の先祖)長府藩毛利家家臣。長州藩は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利家を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 安芸広島を本拠に山陽道・山陰道の8か国を領有していた毛利家が関ヶ原の戦いに敗れ、防長二国に領地を削減されたことで成立。以来、250年以上にわたって藩庁を長門国阿武郡萩の萩城に置いていたことから一般的に長州藩と呼ばれ、藩庁を周防国吉敷郡山口の山口城(山口政事堂)へ移した山口移鎮後も長州藩と呼ばれている。萩時代を萩藩、山口時代を山口藩とも呼んで区別する場合もある。明治初年から4年まで、府藩県三治制下では山口藩と称した。また毛利藩と呼ばれることもある。 幕末には薩摩藩とともに討幕運動の中心となり、明治維新の原動力となった。明治政府に木戸孝允、大村益次郎、伊藤博文、井上馨、山縣有朋などの人材を多数輩出した。