遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤宗家第十八代 本邸門松

2021年01月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の本邸門松は、そぎの形状を採用している。門松は、正月に家の門の前などに立てられる松や竹を用いた正月飾りである。松飾り、飾り松、立て松とも言う。古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがある。「松は千歳を契り、竹は万代を契る」と言われ、松と竹で神の依代の永遠を願う。年神はこの松門を目印に降臨してくるとされる。

現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。古くは松などの常緑樹を飾っていたが、鎌倉時代以後、竹も一緒に飾るようになった。竹の先端部の形状は、斜めに切った「そぎ」と真横に切った「寸胴」の2種類がある。 一説によると「そぎ」は、徳川家康公が始めたものとされている。

元亀3年(1572年)12月22日 遠江国敷知郡の「三方ヶ原の戦い」(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)は、武田信玄と徳川家康公・織田信長公の間で行われた戦いである。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが、徳川家康公の生涯唯一の敗北として知られている。

合戦に勝った武田信玄は、さらに徳川家康公を精神的に追い詰めるために新年の挨拶に歌を送った。「松枯れて 竹類なき あしたかな」(まつかれて たけたぐひなき あしたかな)と詠まれた。意味は「松(松平=家康のこと)が枯れて(滅びて)竹(武田のこと)類なき(比類することない、繁栄する)あしたかな」すなわち「徳川家が滅び、武田家が繁栄する」。

これに対して、徳川家康公から返した歌は「松枯れで 武田首なき あしたかな」(まつかれで たけだくびなき あしたかな)。意味は「松枯れで(松平は滅びず)武田首なき(武田家は滅びる)あしたかな」すなわち「徳川家は滅びず、次には武田家を滅ぼす」と詠んだ。徳川家康公は、この歌を詠んだ正月に飾ってあった門松の「竹」を「武田の首」に見立てて斜めに削ぎ落としたとされている。

※画像:「三河後風土記之内 天龍川御難戦之図」歌川芳虎 作


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。