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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
大正天皇 大饗の儀
2021年01月17日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は、大正天皇の侍従職。曽祖母である栗原セイは、大正天皇の貞明皇后女官職として側近奉仕に従事した。以下の行事に両名は、関わったと思われる。
大正4年(1915年)11月10日から17日 京都で行われた大正の即位礼は、明治までとは異なる形式で行われた。令和の即位の礼の基準となる部分も多い。当初は前年の同3年に執り行われる予定であったが、同年4月11日に昭憲皇太后(明治の皇后美子)が崩御したことにより、1年延期された。
11月10日午前 京都御所に移設された賢所において、天皇が先祖に即位を報告する儀式が行われ、次いで14、15日には、大嘗祭が行われた。大嘗祭は、即位された天皇がその年の新しい収穫物を神々に供えて、五穀豊穣を感謝し、国家の安寧を祈念する儀式である。この儀式を終了して、正式に天皇に即位されたことになる。
16、17日には、二条離宮(二条城)で大饗の儀が開催された。大饗の儀は、収穫された新作物を天皇より賜る節会(せちえ)、つまり収穫祝いのお振る舞いの宴会である。16日の大饗第一日には、各地方の特産物による和食が供された。その際に、銀製の挿華が列席者に下賜された。古代において臣下たちは冠に花を挿して、天皇の前にて舞い踊った。その花を挿華と呼んだ。平安時代以降は、天皇即位の際に、台に載せた造花が飾られるようになった。それも挿華と言った。大正天皇の即位にも大きな銀製挿華が献上され、そのミニチュア版が列席者にも下賜されたのである。挿華の制作下賜の慣習は、昭和、平成、令和にも受け継がれている。
大饗第二日の昼と夜のメニューは、即位礼としては初めての洋食となった。列席者2000人を超える晩餐会の献立から調理まで、全てを取り仕切ったのが「天皇の料理番」であった宮内省大膳寮の秋山徳蔵主厨長である。その秋山主厨長による洋食献立は、スッポンのコンソメや鱒の酒蒸し、七面鳥の炙り焼きなどである。その中で異彩を放っていたのは「クレーム・デクルヴィッス(ザリガニのクリーム仕立てのポタージュ)」である。
夜宴の際には、大嘗祭の神器を象(かたど)った柏葉筥(かしわばはこ)形のボンボニエールが配られた。柏の葉の重なりを銀で表現し、紐(ひも)のかかる部分の葉には、わざわざ折り込みを作るという細かい仕様がなされている。京都での諸儀式を終えて、12月7日、8日には、宮中饗宴が催されたが、この際には、八稜鏡形ボンボニエールが下賜された。
※画像:二条離宮大饗宴場
■ 秋山徳蔵
1888年(明治21年)8月30日 - 1974年(昭和49年)7月14日。享年85歳。1904年(明治37年)華族会館料理部、築地精養軒、三田東洋軒を経て、1907年(明治42年)渡欧、フランスで料理修業、1913年(大正2年)帰国、宮内省大膳寮入省を経て厨司長、初代主厨長。大正、昭和の二代天皇家の食事、両天皇即位御大典の賜宴、宮中の調理を総括。1971年(昭和46年)フランス料理アカデミー名誉会員、パリ調理士協会名誉会員、フランス主厨長協会会員、1972年(昭和47年)退省、宮内庁御用掛、1973年(昭和48年)勲三等瑞宝章綬章。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
大正4年(1915年)11月10日から17日 京都で行われた大正の即位礼は、明治までとは異なる形式で行われた。令和の即位の礼の基準となる部分も多い。当初は前年の同3年に執り行われる予定であったが、同年4月11日に昭憲皇太后(明治の皇后美子)が崩御したことにより、1年延期された。
11月10日午前 京都御所に移設された賢所において、天皇が先祖に即位を報告する儀式が行われ、次いで14、15日には、大嘗祭が行われた。大嘗祭は、即位された天皇がその年の新しい収穫物を神々に供えて、五穀豊穣を感謝し、国家の安寧を祈念する儀式である。この儀式を終了して、正式に天皇に即位されたことになる。
16、17日には、二条離宮(二条城)で大饗の儀が開催された。大饗の儀は、収穫された新作物を天皇より賜る節会(せちえ)、つまり収穫祝いのお振る舞いの宴会である。16日の大饗第一日には、各地方の特産物による和食が供された。その際に、銀製の挿華が列席者に下賜された。古代において臣下たちは冠に花を挿して、天皇の前にて舞い踊った。その花を挿華と呼んだ。平安時代以降は、天皇即位の際に、台に載せた造花が飾られるようになった。それも挿華と言った。大正天皇の即位にも大きな銀製挿華が献上され、そのミニチュア版が列席者にも下賜されたのである。挿華の制作下賜の慣習は、昭和、平成、令和にも受け継がれている。
大饗第二日の昼と夜のメニューは、即位礼としては初めての洋食となった。列席者2000人を超える晩餐会の献立から調理まで、全てを取り仕切ったのが「天皇の料理番」であった宮内省大膳寮の秋山徳蔵主厨長である。その秋山主厨長による洋食献立は、スッポンのコンソメや鱒の酒蒸し、七面鳥の炙り焼きなどである。その中で異彩を放っていたのは「クレーム・デクルヴィッス(ザリガニのクリーム仕立てのポタージュ)」である。
夜宴の際には、大嘗祭の神器を象(かたど)った柏葉筥(かしわばはこ)形のボンボニエールが配られた。柏の葉の重なりを銀で表現し、紐(ひも)のかかる部分の葉には、わざわざ折り込みを作るという細かい仕様がなされている。京都での諸儀式を終えて、12月7日、8日には、宮中饗宴が催されたが、この際には、八稜鏡形ボンボニエールが下賜された。
※画像:二条離宮大饗宴場
■ 秋山徳蔵
1888年(明治21年)8月30日 - 1974年(昭和49年)7月14日。享年85歳。1904年(明治37年)華族会館料理部、築地精養軒、三田東洋軒を経て、1907年(明治42年)渡欧、フランスで料理修業、1913年(大正2年)帰国、宮内省大膳寮入省を経て厨司長、初代主厨長。大正、昭和の二代天皇家の食事、両天皇即位御大典の賜宴、宮中の調理を総括。1971年(昭和46年)フランス料理アカデミー名誉会員、パリ調理士協会名誉会員、フランス主厨長協会会員、1972年(昭和47年)退省、宮内庁御用掛、1973年(昭和48年)勲三等瑞宝章綬章。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。