遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

太田酒造 清酒「道灌」

2021年02月02日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。

太田道灌公から五代目の孫である太田資武(太田資正の三男)は、徳川家康公の次男の結城秀康に仕えた。慶長六年(1601年)結城秀康の越前国移封に従い3,000石を与えられ、軍奉行に任ぜられる。その後、大坂の陣で活躍し、松平忠昌の代に7,900石に加増された。父資正の死後に家督を継ぎ、安房守を名乗った。

太田資武の次男である正長(太田若狭守正長)は、福井藩士でありながら幕府直々の内命を受け、近江草津に移住した。太田正長は、貫目改所、人馬継立所の公的機関としての役目を果たしながら所謂かくし目付として街道の動静を見張る役目も果たしていた。草津宿は東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、水陸交通の要所でもあることから関所的な役割を担っていた。

人馬継立所は公務として、必要に応じて人夫や車馬を提供しなければならず、常に多数の馬と人足を備えていた。太田家の屋敷は三千坪の広さがあり、人足小屋や牧舎が軒をつらねて、常時五十人~七十人の人足と馬百頭前後を用意、大宿としての威容を誇っていた。太田家を中心とする附近は政所と言われており、この一帯が草津宿の政治的中心であった。

草津宿を往来する者の所有物や荷駄についての量目を調査したりする本来の業務の他、両替や問屋的な商売も同時に行った。人馬継立所が今日の運輸業とするならば、貫目改所はさしずめ金融業(治安維持含む)と言うべきものであった。

草津宿の整備とともに草津問屋として太田家の地位は次第に確立していき、当時の使用された草津問屋の印鑑や秤り、数多くの倉庫の施錠鍵、頑丈な建物に使用の戸車など、貫目改所としての隆盛を物語るものが多数残されている。

明治七年(1874年)太田末吉は、草津において酒造業を開始する。大正九年(1920年)家業である酒造業を父末吉から継いだ子の敬三は、販路拡張のため関東へ進出した。昭和二十二年(1947年) 原料アルコールと焼酎(甲類)の製造を行う拠点を東京に六千坪確保した。その後、昭和三十九年(1964年)東京都工場公害防止条例が施行され、アルコール製造の事業を中止。その後、昭和三十七年(1962年)悲願である灘酒造所が完成した。また、栗東町の太田農場ブドー園にシャトーを建設し、多角的酒造りを展開した。現在でも、太田道灌公の末裔にあたる太田酒造の太田精一郎社長の下、遠祖の名に因んだ清酒「道灌」等が製造されており、人々に銘酒として賞味されている。

また、伝統と品質が評価され、一般財団法人国民公園協会皇居外苑向けに『皇泉シリーズ』の日本酒・焼酎を製造しており、皇居外苑楠公売店にて購入することができる。楠公売店は、皇居外苑の利用普及として「日本の伝統文化や東京らしさ」、「素材や品質の良さ」をコンセプトとしたプライベート・ブランド「皇居外苑」商品を販売している。皇居外苑PB商品は国民公園協会が監修し、その商品の販売で得た監修料は、皇居外苑の環境整備や、公園整備等に役立てている。皇居外苑、京都御苑及び新宿御苑は、いずれも旧皇室庭園という由緒を持ち、また、皇居外苑は皇居の前庭として、京都御苑は京都御所の前庭として、さらに新宿御苑は観菊会等の公式行事が行われるにふさわしい品格と伝統を備えた庭園として、日本国民のみならず広く世界の人々にも親しまれている。


◆ 太田酒造株式会社 概要
代表者 代表取締役社長 太田 精一郎
本 社 滋賀県草津市草津
設 立 1874年
日本酒:清酒道灌、淡海わか紫
焼 酎:純米焼酎無名不語
ワイン:琵琶湖ワイン、シャトー・コート・ド・ビワ、延寿酒
梅 酒:梅酒びわ湖