遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

大正天皇 儀装馬車

2021年02月02日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は、大正天皇の侍従職。曽祖母である栗原セイは、大正天皇の貞明皇后女官職として側近奉仕に従事した。以下の行事に両名は、関わったと思われる。

旧皇室典範・登極令制定後、初めての挙行となった第123代・大正天皇即位の礼は、1915年(大正4年)11月10日に京都御所紫宸殿で行われた。本来は1914年(大正3年)に挙行される予定だったが、同年4月に昭憲皇太后の崩御により1年延期された。明治天皇の即位時には新調できなかった高御座等が新調された。儀式は皇室の祖神である天照大神と歴代の天皇へ期日を奉告することに始まり、皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮へ勅使が遣わせられる。時期は登極令により春から秋とされ、先帝の崩御から1年間は服喪期間として即位の礼・大嘗祭は行われない。この服喪期間を特に「諒闇」という。

即位の礼では最重要の儀式が「正殿の儀」であり、天皇は束帯、皇后は十二単に身を包む。天皇の束帯は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と言い、天皇以外は着用できない。正殿の儀にて使用される玉座は天皇のものを高御座(たかみくら)、皇后のものを御帳台(みちょうだい)と呼ぶ。造りは三層黒塗り継檀の上に八角形の屋根を置き、鳳凰・鏡等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル、重さ8トンに及ぶ。

大正天皇即位の礼で使用された儀装馬車1号は、大正三年(1914年)に座馭式8頭立6頭曳として製造された。1928年(昭和三年)に座馭式から騎馭式に改造及び大修復を行い同年の昭和天皇即位の礼で使用され、現在に至っている。仕様は、船底型、漆塗で車体の胴は海老茶色、重量1,398㎏(鳳凰含む)、長さ4.48m、幅1.93m、高さ3.27m(鳳凰含む)、8頭立6頭曳の騎馭式の4人乗り馬車。屋根に鳳凰を戴き、車体の上縁全体に菊葉の彫刻と中央に菊花御紋章を金色で装飾し、車体の胴両側に金色菊葉唐草模様及び金高蒔絵の御紋章がある。

宮内庁では、明治末から昭和初期に製造された4台を保有している。儀装馬車には2種類あり、馬を操る御者(ぎょしゃ)が御者台に座る座馭式(ざぎょしき)と、馬に乗る騎馭式(きぎょしき)がある。車体には皇室ゆかりの菊花紋章や菊葉が施され、金高蒔絵や漆塗り、精緻な彫刻などがあしらわれていて美術工芸品としての価値も高い。

大正天皇侍従職であった遠藤榮 遠藤宗家第十五代当主は、千駄ヶ谷屋敷から皇居までの送迎に宮内省馬車を使用していた。大正時代に使われていた馬車や人力車、自動車等は、どれを日常的に使っていたかによって、身分などを推し量ることができた。当時、ホテルが送迎のために馬車を用意するのは、高位高官のみとされていた。

※画像:儀装馬車1号


■ 大正天皇
1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日。第百二十三代天皇。在位:1912年(明治45年/大正元年)7月30日 - 1926年(大正15年/昭和元年)12月25日。諱は嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。お印は壽(じゅ)。明治天皇の第三皇子。九条道孝の四女節子(貞明皇后)と結婚、裕仁親王・雍仁親王・宣仁親王・崇仁親王の四皇子を得た。文学を好み和歌・漢詩を能くした。即位後は健康がすぐれず、専ら療養生活を送り、皇太子裕仁親王が摂政の任に就いた。

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。