遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

亀頂山三宝寺

2021年02月18日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。

石神井城があった石神井公園の近辺には、城主だった豊島氏や豊島氏を滅ぼした太田道灌公にまつわる神社や寺院がある。三宝寺池の南側は神社仏閣地帯になっており、石神井城の鎮守として室町時代に創建された氷川神社がある。

真言宗智山派寺院の三宝寺は、亀頂山密乗院三宝寺と号し、応永元年(1394年)に鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が当地周辺に創建した。文明9年(1477年)、太田道灌公により当地へ移転、天正19年(1591年)には10石を与えられた御朱印寺であった。三宝寺の山門は、徳川将軍家第三代の家光公が鷹狩の際に休憩に立ち寄った記録が残ることから、御成門と呼ばれている。現在の御成門は、寛政12年(1827年)に再建された。その横には、勝海舟邸にあった長屋門があり、昭和35年(1960年)成増駅近くにあった遊園地兎月園からに移設された。

石神井公園にある三宝寺池は、三宝寺の由来になっている。三宝寺池にある厳島神社は、かつて三宝寺配下の弁天社、池の古称も弁天池といい、三宝寺と縁があったことによる。明治期の神仏分離令で厳島神社となった。三宝寺池から近くを流れる石神井川まで、かつて三宝寺川(古称・弁天川)が注いでいた。三宝寺池の湧水が枯渇するまで、同池は石神井川の主水源だった。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮の参詣や鷹狩の際に警固を行ったことから、三宝寺の任務も担当したと思われる。

一方、石神井池の南東の石神井記念庭園の先には真言宗寺院の禅定院(本尊:阿弥陀如来)があり、弘法大師尊像、延命地蔵、いぼ神地蔵などが置かれる。因みに三宝寺と禅定院は、東京都内にある弘法大師ゆかりの寺院で構成された御府内八十八箇所霊場。宝暦5年(1755年)頃に開創したと伝えられる。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三石神井村村長は、石神井の有力地主であった。昭和9年(1934年)石神井池(ボート池)は、三宝寺池一帯が風致地区に指定された際、三宝寺池とともに武蔵野の景観を保護する目的で、栗原鉚三村長の所有する田んぼに三宝寺池の湧水を引いて人工的に作られたものである。そのことにより、石神井公園は行楽地として人々に親しまれるようになっていった。栗原家の菩提寺である三宝寺は、古くから檀家であることから、三宝寺根本大塔の再建事業に伴い寄附支援を行った。

※画像:根本大塔、平成8年(1996年)建立の木造多宝塔。


【 三宝寺の概要 】
山 号:亀頂山
院 号:密乗院
寺 号:三宝寺
住 所:練馬区石神井台1-15-6
本 尊:不動明王、紅頗梨色阿弥陀仏
宗 派:真言宗智山派
墓 地:石神井寶亀閣
備 考:関東三十六不動第11番、御府内八十八ヶ所霊場16番、豊島八十八ヶ所霊場16番、武蔵野三十三観音霊場3番

【 三宝寺所蔵の文化財 】
三宝寺の梵鐘(練馬区指定文化財)
弥陀三尊来迎画像板碑(練馬区登録文化財)
三宝寺山門(練馬区登録文化財)

【 練馬の寺院による三宝寺の縁起 】
「新編武蔵風土記稿」に「三宝寺、新義真言宗。亀頂山密乗院ト号ス。無本寺ナリ。古ハ鎌倉大楽寺ノ末ナリシト云。本尊不動。傍ニ聖徳太子ノ作ノ正観音ヲ安ス。又勝軍地蔵ヲ置リ。是ハ村内愛宕社ノ本地ニシテ世ニ希ナル古仏ナリ。年ヲ追テ朽損セシカハ慶長11年檀越尾崎出羽守資忠住僧頼融ト謀リ修理ヲ加ベシト云。其後賊ニアヒテ全躯ハ失ヘリ。寺伝ヲ閲スルニ。当寺ハ応永元年権大僧都幸尊下石神井村ニ草創スル所ニシテ。同キ5年3月9日寂ス。後屢戦争ノ災ニ罹テ頗衰タリシニ。文明9年太田道灌豊島氏ヲ滅セシ後ソノ城跡ヘ当寺ヲ移セリト云。カカル旧刹ナリシカハ。天文16年元ノ如ク勅願所タルヘキノ免状ヲ賜ヒ。永禄10年現住尊海ヲ大僧正ニ任セラル。又北条氏ヨリモ寺田ヲ寄附シ。制札等ヲ与ヘテ帰依浅カラザリシカハ御当代ニ至リテモ先規ニ任セラレ。天正19年領10石ノ御朱印ヲ賜ハレリ。寛永2年正保元年大猷院御放鷹ノ序当寺ヘ御立寄アリ例歳2月15日3月21日ノ二度ニ常楽会ヲ執行ス。近郷ノ末寺配役シテ是ヲ勤ムト云。」とある。

「三宝寺誌」所収の「三宝寺縁起」に「即ち西紀1394年、後小松天皇の応永元年の草創である。鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印は、仏縁の地を求めて巡錫し来リ、武蔵豊島郡石神井郷小仲原の地が、石神井川の清流を前にし、三宝寺川の谷を後にする、霊亀状丘陵の頂点たる景勝を嘉し、此所に真言の道場として一宇の浄舎を建立した。亀頂の山号及び密乗の院号の由来するところ、実にこれに因るのである。」とある。

当寺には幾多の文書記録が蔵されていたが、境域はしばしば兵火にかかり、さらに、文久3年(1863)と明治7年(1874)の2回火災に遇ったので、その際多くの什宝記録の類は灰塵に帰した。しかし、その文書の一部は「新編武蔵風土記稿」に記載されており、また古文書の写や江戸時代の文書記録などは数多く伝えられ寺誌に記載されている。寺宝は、木像の紅頗梨色阿弥陀仏(制作年代不詳)や来迎三尊仏画像板碑(文明4年7月15日銘)など。鐘楼の梵鐘は延宝3年(1675)の銘があり、「新編武蔵風土記稿」によると、江戸増上寺の大鐘を鋳た時、その余銅をもって造ったと伝えている。山門は将軍家光(大猷院)が鷹狩で御成りになったことに因んで、御成門と呼ばれ、現在の門は文政10年(1827)7月26日に成り、当寺第一の古建築で、昭和28年(1953)修復、その際見つかった棟札に文政当時建造の由が記されている。門前に寺格を表す「守護使不入」の結界石がある。

長屋門はもと勝海舟邸にあった由緒ある門で、区内旭町兎月園に移されていたものを、将軍家ゆかりの当寺が幕末の重臣勝海舟を慕い昭和35年移築したものである。境内には多くの石造物があるが、田島鉄平の碑は明治期の石神井における養蚕を語るものとして注目に値する。(練馬の寺院より)


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。