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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
豊島山道場寺
2021年03月01日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。
東京都練馬区にある曹洞宗の道場寺は、応安5年(1372年)当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が、蘭溪道隆(大覚禅師)を招いて創建した。その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられている。当初は臨済宗の寺院であったが、慶長6年(1601年)に曹洞宗に転宗した。今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明9年(1477年)太田道灌公に滅ぼされた豊島氏最後の石神井城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔三基がある。
道場寺には、三代当主北条氏康印判状が所蔵されている。この古文書は、永禄5年(1562年)4月21日 小田原の北条氏康から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状である。内容は、道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書である。 昭和48年(1973年)に建築された境内の三重塔内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されている。
石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城である。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北約350mの規模の主郭(内郭)と外郭からなる、比較的単純な構造の中世城館。昭和31年(1956年)以降の数次の発掘調査によって、主郭(内郭)や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土している。
文明8年(1476年)城主の豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定に背いた長尾景春に味方した(長尾景春の乱)。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正(扇谷上杉氏)の家宰太田道灌公に攻められることとなり、文明9年(1477年)4月、石神井城は落城した。落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、二女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられている。
※画像:道場寺山門
【 道場寺の概要 】
山 号:豊島山
院 号:無量印
寺 号:道場寺
本 尊:釈迦如来
住 所:練馬区石神井台1-16-7
宗 派:曹洞宗
備 考:武蔵野三十三観音霊場2番
【 道場寺所蔵の文化財 】
北条氏康印判状(練馬区指定文化財)
文応元年の弥陀板碑(練馬区登録文化財)
【 練馬の寺院による道場寺の縁起 】
「新編武蔵風土記稿」に「道場寺 禅宗曹洞派。荏原郡世田谷村勝光院末。豊島山無量院ト称ス。本尊阿弥陀。又行基ノ作ノ薬師ヲ安ス。元ハ別堂ニアリシモノナリ。当寺ハ石神井城主豊島左近太夫景村ノ養子。豊島兵部大輔輝時。応安5年4月10日。此地ニオイテ菩提寺ヲ起立シ。豊島山道場寺ト号シ。僧大岳ヲ延テ開山トナシ。練馬郷ノ内62貫500文ノ地ヲ寄附ス。其頃ハ済家ナリト云。輝時ハ北条高時ノ子相模次郎時行ノ長子ナリ。其家滅亡ノ後景村養ヒテ豊島ノ家ヲ継シメシトナリ。事ハ過去帳ニ詳ナリ。輝時永和元年7月7日卒ス。勇明院正道一心ト謚名ス。中興開山観堂。慶長6年5月26日寂ス。此時今ノ派ニ改ム。時ノ開基徳翁宗隣ハ。小田原北条氏ニ仕えシ石塚某ノ子ニテ。幼ヨリ仏心深ク遂ニ剃髪シテ僧トナリ。観堂トカヲ戮セ堂宇ヲ再建セリ。慶長10年8月朔日寂ス。」とある。
「道場寺由緒」によれば「抑も往古当山は、聖武天平(七二九)の開創にして、本尊には行基菩薩作阿弥陀如来の尊像を安置せりと(石神井)伝ふ……されど豊島氏は文明九年(一四七七)太田道灌の軍配に敗れ諸堂烏有に坂す。其後北条氏康より永禄五年四月(一五六二)寅朱印を拝領し山門再び興隆せるも北条の威振はず戦国乱世となり寺宝古記録概ね消滅し法灯将に絶へんとするや開基徳翁和尚は、勝光院二世観堂禅師を招して再建して中興せり。時に慶長三年(一五九八)なり。幸い寅朱印及び過去帳の一部がその厄をのがれ現存せり。現在は曹洞宗に属し本尊には釈迦牟尼仏側侍薬師如来聖観音を奉安す。尚ほ、御前立としては武蔵野三十三所第二番霊場本尊聖観音の尊像(中村直人作)を安置す。」とある。文中の寅朱印とは当寺の寺宝北条氏康印判状でつぎのように記されている。「武州石神井之内弘徳院門派道場寺分之事如前々可為不入候。段銭懸銭以下一切令免除者也。仍状如件永禄五年壬戊四月廿一日禅居奄」。北条氏康が永禄五年(一五六二)四月二十一日、禅居庵にあてて、道場寺分の土地に段銭・懸銭などの付加税をいっさい取らないことを申し渡したものである。
墓地には、豊島泰経及び一族の墓と称する三基の石塔などがある。(泰経は、石神井城の最後の城主。)
現在の本堂は天平の往時をしのび、唐招提寺の金堂を模して昭和十二年(一九三七)から改築したものである。昭和四十五年(一九七〇)から五十年(一九七五)にかけては山門と鐘楼及び三重塔が新築された。梵鐘と三重塔内の金銅薬師如来像は香取正彦(人間国宝)作のもので、台座にはスリランカ国より拝受の仏舎利も奉安されている。
ほかに人類学・考古学者、柴田常恵の墓がある。また江戸時代末期当寺が売り出した膏薬、梅黄丸の版木も保存されている。(「練馬の寺院」より)
【 練馬区教育委員会掲示による道場寺の縁起 】
道場寺は、豊島山といい曹洞宗の寺である。
この寺は、文中元年(北朝応安5年、1372年)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられている。今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明9年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔3基がある。
道場寺には、北条氏康印判状が所蔵されている。この古文書は、永禄5年(1562)4月21日、小田原の北条氏康(1515-71)から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状である。内容は、道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区内では、現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書である。境内の三重塔(昭和48年建築)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されている。(練馬区教育委員会掲示より)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
東京都練馬区にある曹洞宗の道場寺は、応安5年(1372年)当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が、蘭溪道隆(大覚禅師)を招いて創建した。その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられている。当初は臨済宗の寺院であったが、慶長6年(1601年)に曹洞宗に転宗した。今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明9年(1477年)太田道灌公に滅ぼされた豊島氏最後の石神井城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔三基がある。
道場寺には、三代当主北条氏康印判状が所蔵されている。この古文書は、永禄5年(1562年)4月21日 小田原の北条氏康から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状である。内容は、道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書である。 昭和48年(1973年)に建築された境内の三重塔内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されている。
石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城である。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49mの舌状台地上に所在し、東西約350m、南北約350mの規模の主郭(内郭)と外郭からなる、比較的単純な構造の中世城館。昭和31年(1956年)以降の数次の発掘調査によって、主郭(内郭)や土塁築土から12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土している。
文明8年(1476年)城主の豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定に背いた長尾景春に味方した(長尾景春の乱)。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正(扇谷上杉氏)の家宰太田道灌公に攻められることとなり、文明9年(1477年)4月、石神井城は落城した。落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、二女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられている。
※画像:道場寺山門
【 道場寺の概要 】
山 号:豊島山
院 号:無量印
寺 号:道場寺
本 尊:釈迦如来
住 所:練馬区石神井台1-16-7
宗 派:曹洞宗
備 考:武蔵野三十三観音霊場2番
【 道場寺所蔵の文化財 】
北条氏康印判状(練馬区指定文化財)
文応元年の弥陀板碑(練馬区登録文化財)
【 練馬の寺院による道場寺の縁起 】
「新編武蔵風土記稿」に「道場寺 禅宗曹洞派。荏原郡世田谷村勝光院末。豊島山無量院ト称ス。本尊阿弥陀。又行基ノ作ノ薬師ヲ安ス。元ハ別堂ニアリシモノナリ。当寺ハ石神井城主豊島左近太夫景村ノ養子。豊島兵部大輔輝時。応安5年4月10日。此地ニオイテ菩提寺ヲ起立シ。豊島山道場寺ト号シ。僧大岳ヲ延テ開山トナシ。練馬郷ノ内62貫500文ノ地ヲ寄附ス。其頃ハ済家ナリト云。輝時ハ北条高時ノ子相模次郎時行ノ長子ナリ。其家滅亡ノ後景村養ヒテ豊島ノ家ヲ継シメシトナリ。事ハ過去帳ニ詳ナリ。輝時永和元年7月7日卒ス。勇明院正道一心ト謚名ス。中興開山観堂。慶長6年5月26日寂ス。此時今ノ派ニ改ム。時ノ開基徳翁宗隣ハ。小田原北条氏ニ仕えシ石塚某ノ子ニテ。幼ヨリ仏心深ク遂ニ剃髪シテ僧トナリ。観堂トカヲ戮セ堂宇ヲ再建セリ。慶長10年8月朔日寂ス。」とある。
「道場寺由緒」によれば「抑も往古当山は、聖武天平(七二九)の開創にして、本尊には行基菩薩作阿弥陀如来の尊像を安置せりと(石神井)伝ふ……されど豊島氏は文明九年(一四七七)太田道灌の軍配に敗れ諸堂烏有に坂す。其後北条氏康より永禄五年四月(一五六二)寅朱印を拝領し山門再び興隆せるも北条の威振はず戦国乱世となり寺宝古記録概ね消滅し法灯将に絶へんとするや開基徳翁和尚は、勝光院二世観堂禅師を招して再建して中興せり。時に慶長三年(一五九八)なり。幸い寅朱印及び過去帳の一部がその厄をのがれ現存せり。現在は曹洞宗に属し本尊には釈迦牟尼仏側侍薬師如来聖観音を奉安す。尚ほ、御前立としては武蔵野三十三所第二番霊場本尊聖観音の尊像(中村直人作)を安置す。」とある。文中の寅朱印とは当寺の寺宝北条氏康印判状でつぎのように記されている。「武州石神井之内弘徳院門派道場寺分之事如前々可為不入候。段銭懸銭以下一切令免除者也。仍状如件永禄五年壬戊四月廿一日禅居奄」。北条氏康が永禄五年(一五六二)四月二十一日、禅居庵にあてて、道場寺分の土地に段銭・懸銭などの付加税をいっさい取らないことを申し渡したものである。
墓地には、豊島泰経及び一族の墓と称する三基の石塔などがある。(泰経は、石神井城の最後の城主。)
現在の本堂は天平の往時をしのび、唐招提寺の金堂を模して昭和十二年(一九三七)から改築したものである。昭和四十五年(一九七〇)から五十年(一九七五)にかけては山門と鐘楼及び三重塔が新築された。梵鐘と三重塔内の金銅薬師如来像は香取正彦(人間国宝)作のもので、台座にはスリランカ国より拝受の仏舎利も奉安されている。
ほかに人類学・考古学者、柴田常恵の墓がある。また江戸時代末期当寺が売り出した膏薬、梅黄丸の版木も保存されている。(「練馬の寺院」より)
【 練馬区教育委員会掲示による道場寺の縁起 】
道場寺は、豊島山といい曹洞宗の寺である。
この寺は、文中元年(北朝応安5年、1372年)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられている。今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明9年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔3基がある。
道場寺には、北条氏康印判状が所蔵されている。この古文書は、永禄5年(1562)4月21日、小田原の北条氏康(1515-71)から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状である。内容は、道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区内では、現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書である。境内の三重塔(昭和48年建築)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されている。(練馬区教育委員会掲示より)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。