遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

石神井城

2021年03月13日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。

石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。豊島氏は貞和5年(1349年)に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元年(1368年)の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2年(1395年)になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。

平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌公に攻められ没落した。文明9年(1477年)のこの戦いにおいて、豊島氏当主泰経と弟泰明はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り道灌公と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走した。

その後、4月14日に道灌公は、石神井城近くの愛宕山(現:早稲田大学高等学院周辺)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌公は攻撃を再開した。外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は、翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌公が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている。(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。尚、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29年(1896年)に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。

遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の親戚である栗原秀雄 栗原家当主の先祖は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などをふくむ広大な土地を所有していた。そのことから、遠藤宗家第十八代 遠藤 潔の曽祖父である栗原鉚三 栗原家当主が石神井村村長等を歴任し、現在の練馬区の基礎を構築した。石神井城に隣接している栗原家長屋門は、明治初期の建築と伝えられ、桁行7間(12.7m)、梁間2間(約3.6m)入母屋造り、トタン葺き(当初は、茅葺き)で、軒を深く突き出した「せがい造り」は当家の高い格式を示す。現在も石神井公園の歩行ルートとして、栗原家長屋門が練馬区観光協会ガイドマップに掲載されている。

※画像:石神井城跡


【 石神井城 】
城郭構造  連郭式平山城
天守構造  無
築城主   豊嶋氏
築城年   鎌倉時代後期
主な城主  豊嶋氏
廃城年   文明9年(1477年)
遺構    土塁、堀
指定文化財 都指定史跡
位置    北緯35度44分14.14秒
東経    139度35分48.45秒
所在地   都立石神井公園(石神井台1丁目27番)


■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。里子は、遠藤武遠藤宗家第十五代当主夫人。室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。