遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

栗原仲右衛門 旧上石神井村名主

2021年03月17日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の高祖父である旧上石神井村の名主の栗原仲右衛門は、石神井の発展に尽力した。三宝寺檀家総代の栗原仲右衛門は、二度の火災にあった三宝寺を再建、三宝寺周辺の巨木を寄進する等した。

1879年(明治12年)1月 五馬力の蒸気製糸器械試運転を成し、成功を見た後、3月 上石神井村1933番地(三宝寺と道場寺の間、約40m×60m)に栗原仲右衛門、本橋勝右衛門らの手によって資本金一万円の器械製糸所「興就社」が設立された。(創業は、6月10日)資本金一万円以上の民営の工場といえば、東京府全体でもわずかに三十社程度に過ぎず、これからも設立当初の興就社の意気込みが感じられる。株数100株、1株100円という株式会社であった。1885年(明治18年)時点では、工夫工女合わせて55人を擁していた。

同工場はわずか10年足らずで廃業の止むなきに至るが、この間に地元の蚕糸業発展へのひとつの布石となった。品種改良、組合の設立、および地元同業者を糾合して行なわれた製品の協同出荷など、興就社の功績とみなされる事跡を諸資料の片鱗に伺うことができる。興就社自体の生糸の価格は、石神井村地方でも群を抜き、同村平均100斤につき542円に対し、22%高い695円という評価を得ている。

1877年(明治10年)8月 西南戦争開戦の中、日本で初めての内国勧業博覧会の開場式が行われた。この博覧会をより効果的に勧業の実をあげようとしたところに大きな狙いがあった。本会は、日本が参加した1873年のウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿大久保利通が推し進めたものである。生糸繭については、9月16日から30日までの間に会場に届けられ、審査を受けた。興就社は、養蚕功績者として推薦された。

このように石神井村の蚕糸業の一中心となり得た興就社は、開設当初より周囲の期待を集めていた。当時政府の手によって進められていた一連の勧農政策のひとつに「生糸繭茶共進会」の設立があった。1879年(明治12年)5月19日に「生糸繭茶共進会規則」が布達されたが、その第一条には「共進会ハ平素各人ノ産製スル同種ノ物品ヲ一場ニ蒐列シ、以テ製産人ノ勉否製産品ノ優劣ヲ照合審査公定シ、乃チ邦家ニ益スル優等ノモノヲ褒賞シ、他ノ一般ヲシテ相共ニ益其業務ヲ競ヒ、其製産ヲ精且大ナラシムルニアルナリ」の目的が規定されている。

明治に至って、石神井や大泉方面に根をおろした製糸業は、農家の副業であった。こうした中、当時の上石神井村に資本金一万円からなる製糸会社「興就社」が設立されたことは、練馬区域内での工業にとって画期的なできごとであったといえる。生糸産業は大正頃まで続いており、これに並行する形で、大泉地方を中心とする撚糸業が発展した。

綿撚糸業とは、原料である綿糸を業者より借り受け、用途に応じた太さに糸を撚る仕事の事を言う。繊維工業では、このほかに染色が盛んに行なわれていた時期があった。明治から大正はじめ頃だといわれるが、当時の石神井村の地域では藍の栽培がまた盛んで、これとの関連において捉えることができる。これら繊維業の内生糸は大正末期には地域の農業が蔬菜栽培中心に作付転換を行なうも次第に衰退し、また染色業も藍栽培が廃れるにつれて衰えた。撚糸業については、大正から昭和のはじめにかけて橋本綿糸撚工場、宮本工業所、小沢撚糸工場その他の工場に受けつがれ、進展した。繊維工業として記録すべきことは、このほかに鐘紡の進出がある。

※画像:第1回内国勧業博覧会開会式(明治天皇、大久保利通初代内務卿)


■ 本橋寛成
1830年1月21日(天保元年3月15日)-1892年(明治25年)3月2日。武蔵国豊島郡出身。日本の地方官吏。下石神井村の豪農、本橋忠蔵の子として生まれる。本橋家は屋号を武州石神井邑・油屋といい、当主は代々勝右衛門と名乗り油絞りをはじめ商いを手広く行っていた。幕末から明治初年にかけて油屋の商売は年商1万両と順調で、1865年(慶応元年)には長州征討に際して幕府へ250両を上納し名字帯刀を許されている。1868年(慶応4年)戊辰戦争に備え組織された石神井農兵隊所属。廃藩置県により東京府の管下に入った後、事業を倅の勝右衛門に譲り地域行政に携わるようになる。1873年(明治6年)下石神井村は東京府第8大区8小区の管轄となるが、寛成はその戸長から、権区長、区長と昇進し、郡区町村編制法のもと南豊島郡ついで北豊島郡の郡長を務めた。この間、学区取締や地租改正掛を兼務して新政府の政策実施に尽力した。1886年(明治19年)公職退職後、東京府農商課内国勧業博覧会委員、1886年(明治19年)倅の勝右衛門を離縁する裁判を起こす。原因は、勝右衛門の製糸業の失敗、大金をつぎ込んでの東京府会議員等の財産浪費。鳩山和夫(日本人第1号の法学博士、外務次官、衆議院議長)を代言人として勝訴。寛成死後は家勢は傾き、本橋家は中野へ移住。昭和4年(1929年)栗原鉚三 石神井村村長が本橋家を財政支援。


■ 栗原仲右衛門
旧上石神井村の名主。1879年(明治12年)製糸工場の興就社、1883年(明治16年)醤油醸造等を創業。栗原家の長屋門(名主門)は、明治初期の建築と伝えられ、桁行7間(約12.7m)、梁間2間(約3.6m)入母屋造り、トタン葺き(当初は、茅葺き)で、軒を深く突き出した「せがい造り」は当家の高い格式を示す。現在も石神井公園の歩行ルートとして、栗原家長屋門が練馬区観光協会ガイドマップに掲載されている。跡継ぎである遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である栗原鉚三は、石神井村の村長などを長く勤め、石神井公園の開設、石神井池(ボート池)、人工滝、100mプールの建設や観光開発事業として、旅館の武蔵野館、別館の豊島館、茶店の見晴亭の敷地を武蔵野鉄道に賃貸した。