遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

徳川将軍家鷹狩

2021年04月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖の所属した甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。

4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたことにあるとされる。

甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。

鷹狩の歴史は古く、古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものもある。日本書紀には、仁徳天皇の355年に鷹狩が行われ、調教する鷹甘(飼)部(たかかいべ)が置かれたという記録も残っている。中でも徳川家康公が鷹狩を好んだことは有名であるが、鷹匠組を側近とした。礼拝用肖像画にも、白鷹が書き込まれる場合が多い。『徳川実記』には「おほよそ鷹狩は遊娯の為のみにあらず。遠く郊外に出て下民の疾苦、士風を察するはいふまでもなし。筋骨勞動し手足を輕捷ならしめ、風寒炎厚をもいとはず奔走するにより、をのづから病など起ることなし」と近臣に語った鷹狩の効用が、記されている。

【 鷹狩の目的 】
 1.民情視察
 2.軍事訓練
 3.身体鍛錬
 4.家臣団知行所支配の実態把握
 5.家臣等の剛弱究明
 6.色欲調節
 7.士風刷新とその高揚
 8.他領国の情勢探索
 9.地方支配の拠点づくり

大御所の家康公を尊敬していた三代家光公も、将軍在職中に百数回も鷹狩を行った。こちらは、遊興として好んだようである。将軍専用の鷹場を整備して「鳥見」を置き、江戸城二の丸には鷹を飼う「鷹坊」を設置した。将軍就任以前は、川越や鴻巣でも鷹狩をほぼ毎年行っていたが、将軍職に就くと江戸五里以内(品川、葛西、高田、麻布、目黒、千住、隅田川、王子など)に限られた。家光公は、1651年(慶安4年)4月20日48歳で亡くなるが、同年正月3日品川、8日浅草、11日千住、2月7日浅草、13日隅田川にて、鷹狩を行っている。五代綱吉公は「生類憐れみの令」により鷹狩を廃止したが、八代吉宗公が復活した。

江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。真言宗智山派寺院の三宝寺は、亀頂山密乗院三宝寺と号し、1394年(応永元年)に鎌倉大楽寺の大徳権大僧都幸尊法印が当地周辺に創建した。1477年(文明9年)、太田道灌公により当地へ移転、1591年(天正19年)には10石を与えられた御朱印寺であった。三宝寺の山門は、徳川将軍家第三代の家光公が鷹狩の際に休憩に立ち寄った記録が残ることから、御成門と称している。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の高祖父である旧上石神井村の名主の栗原仲右衛門は、石神井の発展に尽力した。三宝寺檀家総代の栗原仲右衛門は、二度の火災にあった三宝寺を再建、三宝寺周辺の巨木を寄進した。

他には、尾張殿鷹場碑が、大泉第一小学校正門脇(大泉学園町)に現存の他、南大泉1丁目にも 1913年(大正2年)まで建っていた。尾張徳川家の鷹場が、現在の西大泉・南大泉・大泉学園町・大泉町一帯にあったことを示している。

※画像:京都二条城の障壁画「松鷹図」(絵師:狩野山楽)


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。