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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
牧野富太郎 植物博士
2021年04月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖父である第十六代当主遠藤武は「牧野植物同好会」を通じて日本の植物分類学の父とされる牧野富太郎博士と親交があった。牧野植物同好会は、牧野博士によって1911年(明治44年)に「東京植物研究会」として誕生した。その後「東京植物同好会」と改められ、主に野外採集会を中心に活動され、牧野博士晩年の1955年(昭和30年)に「牧野植物同好会」と改名され、現在に至っている。
牧野博士は、1862年(文久2年)4月24日 土佐・高岡郡佐川村(現高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家の長男として生まれた。正式な学歴では、小学校中退であるが、寺子屋や私塾などで和漢学に加え、英語、オランダ語、さらには物理学、生理学、植物学など、西洋の近代科学を多岐にわたり学んだ。そして、地元の高知県で自ら植物採集を始め本格的に植物学を志すようになった。
1884年(明治17年)に東京帝国大学(現東京大学)理学部植物学教室へ出入りしていた。以後、精力的に研究発表を重ね『日本植物志図篇』や『大日本植物志』などの刊行に携わり、1889年(明治22年)日本初の新種ヤマトグサに学名を付けた。1940年(昭和15年)刊行された『牧野日本植物図鑑』は、現在まで改訂を重ね、植物図鑑として広く親しまれている。
牧野博士の生まれた時代は、1853年(嘉永6年)アメリカの使節ペリー来航に始まる幕末動乱の時代であった。誕生のーヶ月前には坂本能馬が土佐藩を脱藩した。この年には寺田屋事件、生麦事件があり、日本が近代国家への道を歩き出した時でもあった。
幼名を「成太郎」と名付けられた富太郎博士は、1862年(文久2年)4月24日 土佐国高岡郡佐川村(現佐川町)の酒造業を営む裕福な商家「岸屋」に生まれた。何不自由なく育つも、3歳で父佐平、5歳で母久壽(くす)が病死し、6歳の時には祖父小左衛門までも亡くす。幼いころ体の弱かった富太郎博士は、祖母浪子によって大切に育てられた。 幼名については誠太郎と言われていたが、没後成太郎であったことが判明した。
牧野博士(17歳)は、高知中学校の永沼小一郎教員から植物学を学んだ。1881年(明治14年)第2回内国勧業博覧会見物と顕微鏡や書籍を購入するために、19歳の時に初めて上京した。東京では博物局の田中芳男と小野職怒を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学した。
その後、1884年(明治17年)22歳になった牧野博士は上京し、東京帝国大学(現東京大学)理工学部植物学教室に出入りを許され、大学では書籍や標本を使って植物研究に没頭した。当時、日本の研究者は、海外に植物を送り同定してもらっていた。牧野博士も東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っている。図を絶賛する返事が届くなど、天性の描画力にも恵まれていた。
『日本植物志図篇』の刊行や次々と新種の発表をするなど目覚ましい活躍を見せる一方、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入するなどして、郷里の財産も使い果たしてしまう。ついには、多額の借金をしたことで生活も困窮した。1891年(明治24年)牧野博士は、家財整理をするため佐川へと帰郷した。1893年(明治26年)高知で写生や植物採集に励んでいたことから、免職した矢田部教授に代わって教授となった松村任三から帝国大学理科大学助手として招かれることとなった。
関東大震災後の1926年(大正15年)収集した標本類の保存に適した環境を求め、東京府豊多摩郡渋谷町(渋谷区)から東京府北豊島郡大泉村上土支田(練馬区東大泉)に転居した。牧野博士は、暇があると胴乱(植物採集容器)を持って採集に出かけた。練馬区内で採集したことがわかる標本は、上京後の1893年(明治26年)から1953年(昭和28年)に病臥するまで、1.200点を超える。標本に記された採集地には、自宅付近の「武蔵大泉」の他に「武蔵石神井」「武蔵三宝寺」「武蔵練馬」と記されたものも多くある。
遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の曽祖父である石神井村有力地主の栗原鉚三石神井村村長は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などを含む広大な土地を所有していた。そのことから、栗原鉚三村長と植物を通じて交流があったと思われる牧野博士は、1936年(昭和11年)「風致地区思想普及講演会」にて、講演をした。
1927年(昭和2年)理学博士の学位を受けた。一方、自らが平凡になったと残念に思う気持ちがあった。牧野博士は、最後まで講師のまま47年間勤めた大学に辞表を提出し、1939年(昭和14年)退官した。大学を辞めてからは、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製し、熱心に日本産植物の研究を続けた。植物標本は、牧野博士が個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及ぶ。
山へ採集に出かけられなくなった90歳頃から、大泉の自宅で長い時間を過ごすようになった。庭に移植した植物採集、標本整理や地元を同じくする遠藤武 第十六代当主遠藤宗家をはじめとする訪問客と尽きることのない植物の話題に花を咲かせていた。病床につく93歳まで、家族の心配をよそに寝る間を惜しんで植物の研究や書き物を続けたエピソードが多く語られている。
1889年(明治22年)日本で初めての命名植物となった「ヤマトグサ」をはじめ、新種、新品種を含め牧野博士による命名植物は1500種類を数える。牧野博士による命名植物は野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていた。 「日本の植物分類学の父」と言えるのは、その数だけでなく対象の幅広いことによるものである。1957年(昭和32年)1月18日 94歳の生涯を終えた。
※画像:牧野記念庭園入口
■ 牧野富太郎
1862年(文久2年)土佐国高岡郡佐川村(現高知県高岡郡佐川町)に生まれる、1884年(明治17年)東京帝国大学理学部植物学教室出入、1889年(明治22年)日本初「ヤマトグサ」と学名をつける、1893年(明治26年)東京帝国大学理科大学助手、1900年(明治33年)『大日本植物志』第1巻第1集刊行、1912年(明治45年)東京帝国大学理科大学講師、1916年(大正5年)『植物研究雑誌』自費創刊、1926年(大正15年)東京府北豊島郡大泉村上土支田557(現在練馬区立牧野富太郎記念庭園)転居、1927年(昭和2年)理学博士学位、1928年(昭和3年)妻の名にちなんで「スエコザサ」を命名、1937年(昭和12年)朝日文化賞を受ける、1939年(昭和14年)東京帝国大学理学部講師勤続47年で辞職、1940年(昭和15年)『牧野日本植物図鑑』刊行、1951年(昭和26年)第一回文化功労者、1953年(昭和28年)東京都名誉都民に推薦、1957年(昭和32年)満94歳没。従三位勲二等旭日重光章、文化勲章授与。墓所:東京都台東区谷中の天王寺、郷里の佐川町にも分骨されている、1958年(昭和33年)高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園、練馬区東大泉の自宅跡に、庭園及び記念館開園、2009年(平成21年)牧野記念庭園(牧野富太郎宅跡)として、国の登録記念物(遺跡及び名勝地)に登録。
牧野博士は、1862年(文久2年)4月24日 土佐・高岡郡佐川村(現高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家の長男として生まれた。正式な学歴では、小学校中退であるが、寺子屋や私塾などで和漢学に加え、英語、オランダ語、さらには物理学、生理学、植物学など、西洋の近代科学を多岐にわたり学んだ。そして、地元の高知県で自ら植物採集を始め本格的に植物学を志すようになった。
1884年(明治17年)に東京帝国大学(現東京大学)理学部植物学教室へ出入りしていた。以後、精力的に研究発表を重ね『日本植物志図篇』や『大日本植物志』などの刊行に携わり、1889年(明治22年)日本初の新種ヤマトグサに学名を付けた。1940年(昭和15年)刊行された『牧野日本植物図鑑』は、現在まで改訂を重ね、植物図鑑として広く親しまれている。
牧野博士の生まれた時代は、1853年(嘉永6年)アメリカの使節ペリー来航に始まる幕末動乱の時代であった。誕生のーヶ月前には坂本能馬が土佐藩を脱藩した。この年には寺田屋事件、生麦事件があり、日本が近代国家への道を歩き出した時でもあった。
幼名を「成太郎」と名付けられた富太郎博士は、1862年(文久2年)4月24日 土佐国高岡郡佐川村(現佐川町)の酒造業を営む裕福な商家「岸屋」に生まれた。何不自由なく育つも、3歳で父佐平、5歳で母久壽(くす)が病死し、6歳の時には祖父小左衛門までも亡くす。幼いころ体の弱かった富太郎博士は、祖母浪子によって大切に育てられた。 幼名については誠太郎と言われていたが、没後成太郎であったことが判明した。
牧野博士(17歳)は、高知中学校の永沼小一郎教員から植物学を学んだ。1881年(明治14年)第2回内国勧業博覧会見物と顕微鏡や書籍を購入するために、19歳の時に初めて上京した。東京では博物局の田中芳男と小野職怒を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学した。
その後、1884年(明治17年)22歳になった牧野博士は上京し、東京帝国大学(現東京大学)理工学部植物学教室に出入りを許され、大学では書籍や標本を使って植物研究に没頭した。当時、日本の研究者は、海外に植物を送り同定してもらっていた。牧野博士も東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っている。図を絶賛する返事が届くなど、天性の描画力にも恵まれていた。
『日本植物志図篇』の刊行や次々と新種の発表をするなど目覚ましい活躍を見せる一方、研究のために必要と思った書籍は非常に高価なものでも全て購入するなどして、郷里の財産も使い果たしてしまう。ついには、多額の借金をしたことで生活も困窮した。1891年(明治24年)牧野博士は、家財整理をするため佐川へと帰郷した。1893年(明治26年)高知で写生や植物採集に励んでいたことから、免職した矢田部教授に代わって教授となった松村任三から帝国大学理科大学助手として招かれることとなった。
関東大震災後の1926年(大正15年)収集した標本類の保存に適した環境を求め、東京府豊多摩郡渋谷町(渋谷区)から東京府北豊島郡大泉村上土支田(練馬区東大泉)に転居した。牧野博士は、暇があると胴乱(植物採集容器)を持って採集に出かけた。練馬区内で採集したことがわかる標本は、上京後の1893年(明治26年)から1953年(昭和28年)に病臥するまで、1.200点を超える。標本に記された採集地には、自宅付近の「武蔵大泉」の他に「武蔵石神井」「武蔵三宝寺」「武蔵練馬」と記されたものも多くある。
遠藤 潔 遠藤宗家第十八代の曽祖父である石神井村有力地主の栗原鉚三石神井村村長は、代々旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などを含む広大な土地を所有していた。そのことから、栗原鉚三村長と植物を通じて交流があったと思われる牧野博士は、1936年(昭和11年)「風致地区思想普及講演会」にて、講演をした。
1927年(昭和2年)理学博士の学位を受けた。一方、自らが平凡になったと残念に思う気持ちがあった。牧野博士は、最後まで講師のまま47年間勤めた大学に辞表を提出し、1939年(昭和14年)退官した。大学を辞めてからは、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製し、熱心に日本産植物の研究を続けた。植物標本は、牧野博士が個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及ぶ。
山へ採集に出かけられなくなった90歳頃から、大泉の自宅で長い時間を過ごすようになった。庭に移植した植物採集、標本整理や地元を同じくする遠藤武 第十六代当主遠藤宗家をはじめとする訪問客と尽きることのない植物の話題に花を咲かせていた。病床につく93歳まで、家族の心配をよそに寝る間を惜しんで植物の研究や書き物を続けたエピソードが多く語られている。
1889年(明治22年)日本で初めての命名植物となった「ヤマトグサ」をはじめ、新種、新品種を含め牧野博士による命名植物は1500種類を数える。牧野博士による命名植物は野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていた。 「日本の植物分類学の父」と言えるのは、その数だけでなく対象の幅広いことによるものである。1957年(昭和32年)1月18日 94歳の生涯を終えた。
※画像:牧野記念庭園入口
■ 牧野富太郎
1862年(文久2年)土佐国高岡郡佐川村(現高知県高岡郡佐川町)に生まれる、1884年(明治17年)東京帝国大学理学部植物学教室出入、1889年(明治22年)日本初「ヤマトグサ」と学名をつける、1893年(明治26年)東京帝国大学理科大学助手、1900年(明治33年)『大日本植物志』第1巻第1集刊行、1912年(明治45年)東京帝国大学理科大学講師、1916年(大正5年)『植物研究雑誌』自費創刊、1926年(大正15年)東京府北豊島郡大泉村上土支田557(現在練馬区立牧野富太郎記念庭園)転居、1927年(昭和2年)理学博士学位、1928年(昭和3年)妻の名にちなんで「スエコザサ」を命名、1937年(昭和12年)朝日文化賞を受ける、1939年(昭和14年)東京帝国大学理学部講師勤続47年で辞職、1940年(昭和15年)『牧野日本植物図鑑』刊行、1951年(昭和26年)第一回文化功労者、1953年(昭和28年)東京都名誉都民に推薦、1957年(昭和32年)満94歳没。従三位勲二等旭日重光章、文化勲章授与。墓所:東京都台東区谷中の天王寺、郷里の佐川町にも分骨されている、1958年(昭和33年)高知県高知市五台山に高知県立牧野植物園が開園、練馬区東大泉の自宅跡に、庭園及び記念館開園、2009年(平成21年)牧野記念庭園(牧野富太郎宅跡)として、国の登録記念物(遺跡及び名勝地)に登録。