トップページ
プロフィール
基本理念
活動報告
資料
お問い合わせ
トップページ
>
遠藤潔の活動報告
2024年度
2023年度
2022年度
2021年度
2020年度
2019年度
2018年度
2017年度
2016年度
遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
徳川綱吉御殿跡
2021年04月22日
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
徳川綱吉御殿跡は、練馬区北町にある旧跡である。江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉公は、寛文年間(17世紀後半)にこの地を鷹場、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。甲賀武士である遠藤宗家は、鷹狩りの際、警護をしたと思われる。徳川綱吉御殿跡は、将軍に就任する前の右馬頭徳川綱吉公が、当地に滞在していた際に用いられていた御殿の跡である。当地に滞在していた理由として、徳川綱吉公が脚気症を患い、陰陽師から「馬」のつく地で静養するように言われたとされているが、定かではない。徳川綱吉公が将軍職に就任後、御殿は金乗院住職に譲られ、材木を利用して金乗院の改築に充当された。
「北豊島郡誌」(大正7年刊 北豊島郡農会編)では、次のように記載している。
往時、徳川綱吉公右馬頭(うまのかみ)たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜(ぼく)せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。
これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。しかし、この「北豊島郡誌」をさかのぼる20年前、その祖型と思われる「日本園芸会雑誌」(第80号日本蔬菜名品録、市川之雄編 明治30年発行)では、次のように記している。
練馬大根は東京府下北豊島郡練馬村の産にして、秋大根中有数の名品なり、(略)今其起源を聞くに記録の因なるべきものなく、幾百年より栽培したものなるや確知し難しといえども、徳川将軍綱吉公の同村に別邸を建築せられたるとき、邸内の空地に大根を栽培して進献したる処、其性沢庵漬に適せる良味のものなりとの御諚ありたるより以降、同村に於て大根栽培せらるるものなり。
※画像:徳川綱吉御殿跡之碑(田柄川緑道)
【 徳川綱吉御殿跡の概要 】
名 称:徳川綱吉御殿跡
住 所:練馬区北町1-15-5
【 境内掲示による徳川綱吉御殿跡について 】
徳川綱吉御殿跡之碑
この地一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。
後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(十七世紀後半)にこの地を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。(境内掲示より)
【 「北豊島郡誌」による徳川綱吉御殿跡について 】
名勝及舊跡
【御殿跡】村内字御殿にあり、徳川五代の将軍源綱吉公未だ右馬頭たりし時、脚気症に難み、醫療を加ふるも容易に治すべき模様見えざりしかば、陰陽頭をして之を卜せしむ、曰く宜く馬の字を付する地に静養するに加かずと、依て延寶五年此地に殿舎を建て、練馬御殿と稱し、居ること數年病漸く癒え、延寶八年四代将軍家綱薨ずるに及び、江戸城に歸る、之れより御殿の名あり、此殿舎は後に村内金乗院住職に賜ると云ふ、新編武蔵風土記稿に曰『屋敷跡は村の南にあり、右馬頭と稱せるもの住すと云ふ、其姓氏及何人たる事を傳へず、今陸田となり御殿、表門、裏門等の小名あり、礎石など掘出す事まゝあり云々』と。此地今平蕪に歸し、名物練馬蘿蔔(大根)の油々たるを見るのみ。(「北豊島郡誌」より)
■ 徳川綱吉
上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第五代征夷大将軍(在職:1680年 - 1709年)。第三代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。承応2年(1653年)8月12日元服、従四位下右近衛権中将兼右馬頭に叙任。8月17日正三位に昇叙、寛文元年(1661年)12月28日参議補任。延宝8年(1680年)5月7日将軍後継者となり、従二位権大納言。8月21日正二位内大臣兼右近衛大将、征夷大将軍・源氏長者宣下。宝永2年(1705年)3月5日右大臣。宝永6年(1709年)1月10日薨去。1月23日贈正一位太政大臣。
徳川綱吉御殿跡は、練馬区北町にある旧跡である。江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉公は、寛文年間(17世紀後半)にこの地を鷹場、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。甲賀武士である遠藤宗家は、鷹狩りの際、警護をしたと思われる。徳川綱吉御殿跡は、将軍に就任する前の右馬頭徳川綱吉公が、当地に滞在していた際に用いられていた御殿の跡である。当地に滞在していた理由として、徳川綱吉公が脚気症を患い、陰陽師から「馬」のつく地で静養するように言われたとされているが、定かではない。徳川綱吉公が将軍職に就任後、御殿は金乗院住職に譲られ、材木を利用して金乗院の改築に充当された。
「北豊島郡誌」(大正7年刊 北豊島郡農会編)では、次のように記載している。
往時、徳川綱吉公右馬頭(うまのかみ)たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜(ぼく)せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。
これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。しかし、この「北豊島郡誌」をさかのぼる20年前、その祖型と思われる「日本園芸会雑誌」(第80号日本蔬菜名品録、市川之雄編 明治30年発行)では、次のように記している。
練馬大根は東京府下北豊島郡練馬村の産にして、秋大根中有数の名品なり、(略)今其起源を聞くに記録の因なるべきものなく、幾百年より栽培したものなるや確知し難しといえども、徳川将軍綱吉公の同村に別邸を建築せられたるとき、邸内の空地に大根を栽培して進献したる処、其性沢庵漬に適せる良味のものなりとの御諚ありたるより以降、同村に於て大根栽培せらるるものなり。
※画像:徳川綱吉御殿跡之碑(田柄川緑道)
【 徳川綱吉御殿跡の概要 】
名 称:徳川綱吉御殿跡
住 所:練馬区北町1-15-5
【 境内掲示による徳川綱吉御殿跡について 】
徳川綱吉御殿跡之碑
この地一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。
後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(十七世紀後半)にこの地を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。(境内掲示より)
【 「北豊島郡誌」による徳川綱吉御殿跡について 】
名勝及舊跡
【御殿跡】村内字御殿にあり、徳川五代の将軍源綱吉公未だ右馬頭たりし時、脚気症に難み、醫療を加ふるも容易に治すべき模様見えざりしかば、陰陽頭をして之を卜せしむ、曰く宜く馬の字を付する地に静養するに加かずと、依て延寶五年此地に殿舎を建て、練馬御殿と稱し、居ること數年病漸く癒え、延寶八年四代将軍家綱薨ずるに及び、江戸城に歸る、之れより御殿の名あり、此殿舎は後に村内金乗院住職に賜ると云ふ、新編武蔵風土記稿に曰『屋敷跡は村の南にあり、右馬頭と稱せるもの住すと云ふ、其姓氏及何人たる事を傳へず、今陸田となり御殿、表門、裏門等の小名あり、礎石など掘出す事まゝあり云々』と。此地今平蕪に歸し、名物練馬蘿蔔(大根)の油々たるを見るのみ。(「北豊島郡誌」より)
■ 徳川綱吉
上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第五代征夷大将軍(在職:1680年 - 1709年)。第三代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。承応2年(1653年)8月12日元服、従四位下右近衛権中将兼右馬頭に叙任。8月17日正三位に昇叙、寛文元年(1661年)12月28日参議補任。延宝8年(1680年)5月7日将軍後継者となり、従二位権大納言。8月21日正二位内大臣兼右近衛大将、征夷大将軍・源氏長者宣下。宝永2年(1705年)3月5日右大臣。宝永6年(1709年)1月10日薨去。1月23日贈正一位太政大臣。