遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤宗家家紋

2021年06月13日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の家紋は、左三つ巴紋である。「巴」とは「鞆絵」のことで、武具である弓を射るとき手首につける皮革製の道具の形やそこに描かれた文様を図案化したものである。他に稲光や神霊が宿るとされる勾玉を由来とする説や、蛇や人魂(ひとだま)を象ったものを「巴」とする説などもある。

「三つ巴」は平安後期の公家である西園寺実季が、自家用の牛車に描いた左三つ巴紋が由来とされている。その目的は、①自分の牛車が一目で分かるようにすること、②人魂を3つ組み合わせることで呪術的な効力を高めることであった。

「三つ巴」では、3つの巴が同じ方向に向かってぐるぐると回っているさまが図案化されている。この図案は渦巻き模様にも見え、水が渦を巻いて流れている様子が由来ではないかともいわれている。このことから、鯱(しゃち)や懸魚(げぎょ)などとともに、「三つ巴」紋を施した瓦が火事除けのために多く用いられた。平安期の末期頃から鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられていることから、古い日本家屋などで「三つ巴」紋がついた瓦を見ることができる。

「三つ巴」で一般的な左三つ巴紋は、和太鼓にもしばしば描かれており、お祭りの神輿や神社などでも見かける。もともと「三つ巴」は、武運の神として武家から尊崇された「弓矢八幡」の神紋と八幡宮の社紋となっていたが、徐々に他の神社にも広がっていった。

神社で「三つ巴」をよく見かける理由は、神霊が宿る勾玉や水流を象った渦巻が「三つ巴」の由来としてあげられることから、魔除けや火災除けの効果を期待して社殿の軒瓦に「三つ巴」紋を配しているためである。

京都府京都市右京区にある愛宕神社は、全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。愛宕神社は、火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られており、「火防の神様」として知られている。

全国の愛宕神社の祭神は多くの場合、迦具土命(カグツチノミコト)や伊邪那美命(イザナミノミコト)である。記紀神話によれば、カグツチはイザナミとイザナギとの間に生まれた「火の神」(火産霊)であり、生まれた時に母親であるイザナミを焼死させてしまったとされる。この故に「仇子」(あたご)と呼称され、それが「愛宕」の語源となったという説がある(本居宣長『古事記伝』)。この説によれば、「愛宕」は火山の噴火のイメージが語源ということになり、そもそもが火に由来する神であることが窺われる。

民俗学的には「愛宕」は「背面」もしくは「日隠」の意味を持つ「あて」という場所のイメージから派生したのが語源であるとの説もある(柳田国男『地名の研究』)。京都市の西北に鎮座する愛宕神社は全国の愛宕神社の総本社であるが、愛宕の神は本来「境界の神」(塞の神)であり、東の比叡山、西の愛宕山に、境界の内すなわち京都の街を鎮護するために配所され、とりわけ愛宕神社には火伏せの神として祀られたというのである。
 
そもそも京都の愛宕山は修験者の聖地であり、701年(大宝1年)に愛宕神社が建立され、それら修験者が全国に展開して愛宕信仰を広めたと伝えられる。その際、愛宕の神を各地の小高い山や丘に観請したことから「火伏せの神」として広く庶民の信仰を集めることとなり、全国に防火・鎮火の神として信仰が広まったという説である。かくして愛宕山は、全国各地に所在するに至った。

その一方で、愛宕信仰は武士には「勝利の神」として祀られてきた歴史的事実がある。1601年(慶長8年)徳川家康公の命により、標高26メートル、23区内で最も高い自然の山である愛宕山に「勝軍地蔵菩薩」を観請したのが始まりである。東京の愛宕神社は勝利の神が転じて火防の神様として、江戸の防火の拠り所となるとともに、各藩武士が参勤交代の際にこれを地元に持ち帰り、各地に愛宕神社を祀るようになったとの説がある。

1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、堺に取り残された徳川家康公は三河へ帰ろうとしたが、その途上に伊賀があった。ここは信長がかつて攻撃した地域で、その同盟者だった家康公の命も危うかった。家康公一行の長谷川秀一が甲賀一帯に影響力をもつ多羅尾光俊に助けを求めたところ、光俊は家康公一行に一夜の宿を提供しただけでなく、翌日従者50人と甲賀武士200人を付けて加太峠までの伊勢路を警護した。家康公は、甲賀衆・伊賀衆に守られることによって無事帰ることができた。そのことから、家康公は伊勢路まで供をした者を直参に取り立て、甲賀衆・伊賀衆を江戸城の警護にあたらせ、江戸城下に移住させた。

遠藤宗家が属していた甲賀百人組は、徳川家康公が江戸城に入府してから青山百人町にあった青山甲賀屋敷(現在の表参道駅にある善光寺周辺に位置する)、千駄ヶ谷甲賀屋敷(現在の千駄ヶ谷にある国立競技場)、青山権田原の鉄砲演習場を幕府から拝領した。甲賀百人組は、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで討死した甲賀衆の子弟から与力十人、同心百人を組織したことに始まる。

甲賀百人組の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。大坂の陣では、高性能の大砲を鋳造して功績を上げた。


※画像:広重『東都名所 芝愛宕山之図』



■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。