遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

徳川将軍家 川筋御成

2021年06月21日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。

4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。

甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛、御成の警固を行っていた。

将軍の住まいである本丸御殿から外出することを「御成」と言った。将軍の御成先には、城内の紅葉山の霊廟・吹上御庭や、城外の諸藩の大名邸、歴代将軍の霊廟がある増上寺・寛永寺、浜御殿などのほか、時には、江戸近郊まで出向くこともあった。

将軍が川へ外出することは「川筋御成」と言った。将軍が江戸市中を通行するに当たっては「町触」によって、前もって、その順路が知らされた。また、川に浮かぶ川船や廻船は撤去しておくように命じられていた。『徳川実紀』や「町触」によると、将軍は、大川(隅田川)、小名木川、中川など、本所・深川方面の川に御成している。

御成関連文書の一つである旗本『新見文書』は、1832年(天保3年)6月25日 11代家斉公が、中川で漁猟と魚釣りを上覧(見学)するために外出された際の中川への御成順路を書いたものである。

当日、将軍は、坂下御門から和田倉御門、常盤橋を通り両国橋まで進み、両国橋のたもとにある御召場から御船に乗り竪川を通って中川で漁猟を上覧。帰りは、太郎兵衛新田(現在の江東区南砂町三丁目)にある御上り場から上野道を通り、中田新田で自ら釣りをした後、往路の御召場から御船に乗って行きと同じ道を通り江戸城へ戻った。このように、将軍は船に乗って川を行き来きしていた。将軍が乗る船を「御座船」と言い、船内は御殿のひと部屋のように豪華に装飾されていたものもあった。

※画像:楊洲周延「千代田之御表 大川筋御成」


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。