遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館碑

2021年07月03日
駐日イタリア大使館は、大石主税良金ら十士切腹の地となった伊予松山藩松平家中屋敷跡にある。その後、第4・6代 内閣総理大臣の松方正義公爵邸として、大正13年(1924年)まで使用されていた。昭和3年(1928年)日本政府は、イタリア政府へ新しいイタリア大使館の敷地として旧松方公爵邸へ移転することを提案した。翌昭和4年(1929年)に両者間の合意により、昭和7年(19322年)旧イタリア大使館を引き払い、現在の敷地(東京都港区三田二丁目)に移転した。

元禄16年(1703年)2月4日江戸幕府の命により、赤穂浪士10人〔大石主税(良金)、堀部安兵衛(武庸)、木村岡右衛門(貞行)、中村勘助(正辰)、菅谷半之丞(政利)、千馬三郎兵衛(光忠)、不破数右衛門(正種)、大高源吾(忠雄)、貝賀弥左衛門(友信)、岡野金右衛門(包秀)〕が切腹した地である。

この頃、松山藩(現在の四国西部)の4代藩主であった松平隠岐守(松平定直)は病床にあったが、元禄16年1月5日(1703年2月20日) 浪士達と会見した。会見が遅れた謝罪と仇討ちへの称賛を送り「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし、諸事不自由はさせない。用事があれば、遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と述べている。

一方で、浪士たちを罪人として厳しく扱った記録も松平家にも残り「鉄砲まで準備して警備」「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ、目付に見せる」などの記述がある。 このことが「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時の狂歌)と批判された。

松山藩の屋敷跡には赤穂事件の遺構は残っていなかったが、昭和14年(1939年)当時のイタリア大使によって、『國民新聞』主宰、『近世日本国民史』を著したことで知られる徳富蘇峰 徳富家第9代当主(貴族院議員)の揮毫による「赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館」碑が、大使館庭園内に建立された。国際情勢に伴う在外公館の警備強化の方針で、一般公開はしていない。

遠藤 潔 第十八遠藤宗家の母方先祖である榊庄右衛門は、江戸時代に現在の山口県下関市長府に江戸時代に存在した藩のひとつである長府藩毛利家家臣であった。赤穂浪士の岡嶋八十右衛門ら10名が長府藩主である毛利甲斐守邸(東京都港区六本木六丁目)にお預けになった。元禄16年(1703年)2月4日 彼らの切腹の介錯をしたのは、毛利家家臣である榊庄右衛門であった。その際に介錯に使用された刀は、靖国神社に奉納されている。介錯の不手際は切腹人を苦しめるのみならず、面目を失する行為とされたため、介錯人は通例として剣の腕の立つ者が選ばれた。


※画像:赤穂浪士十名切腹ノ地・伊太利大使館碑



■ 赤穂事件
18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良上野介義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件。赤穂浪士とは、元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に旧主浅野内匠頭長矩の仇である高家吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した(赤穂事件)元赤穂藩士大石良雄以下47人の武士である。

■ 榊庄右衛門
遠藤宗家親戚(遠藤寛 遠藤宗家第十七代当主の妻郁子の母橋本スエ子(旧姓榊)の先祖)長府藩毛利家家臣。長州藩は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利家を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 安芸広島を本拠に山陽道・山陰道の8か国を領有していた毛利家が関ヶ原の戦いに敗れ、防長二国に領地を削減されたことで成立。以来、250年以上にわたって藩庁を長門国阿武郡萩の萩城に置いていたことから一般的に長州藩と呼ばれ、藩庁を周防国吉敷郡山口の山口城(山口政事堂)へ移した山口移鎮後も長州藩と呼ばれている。萩時代を萩藩、山口時代を山口藩とも呼んで区別する場合もある。明治初年から4年まで、府藩県三治制下では山口藩と称した。また毛利藩と呼ばれることもある。 幕末には薩摩藩とともに討幕運動の中心となり、明治維新の原動力となった。明治政府に木戸孝允、大村益次郎、伊藤博文、井上馨、山縣有朋などの人材を多数輩出した。