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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
天台宗開祖 最澄
2021年06月04日
天台宗の宗祖・伝教大師 最澄が亡くなって1200年となる4日、天台宗と総本山の比叡山延暦寺(大津市)が大遠忌(だいおんき)の法要を営み、最澄の遺徳を偲んだ。
同寺の大講堂で開かれ、森川宏映天台座主が大導師を務めた。天台宗の阿部昌宏宗務総長は「コロナ禍で閉ざされた人心の闇を照らすため、伝教大師様のご誓願『浄仏国土』(仏の世界)の実現に共に邁進しましょう」と話した。
最澄が供えた灯明が始まりとされ、総本堂・根本中堂で1200年以上ともり続けているという「不滅の法灯」が分灯され、大講堂に運ばれた。最澄の御影(肖像)も掲げられた。「油断をするな」という言葉は「法灯の油を断ってはいけない」から生まれた。
最澄は、自らの誓いを「願文」として記している。
第一、自分が真の仏道を修行した仏教者にならないうちは絶対、世間に出ない。
第二、真理を明らかにできないうちは知識や能力を発揮しない。
第三、戒律を完全に守れないうちは信者の布施にはあずからない。
第四、一切の執着から脱した境地を得ないうちは世俗の仕事をしたり交際したりしない。
第五、修行によって得た功徳は、自分ひとりのものとせずすべてのひとに分け与えたい。
最澄の考えの根本は「利他」であり、自分のことは後回しにして、すべての人が救われることを目指す大乗仏教の菩薩として生きる道を模索した。その中でついに辿り着いたのが、一切衆生を救済することが論証された法華経の教えであり、これに基づいて隋の智顗(ちぎ)が 6世紀に確立し、立宗した中国天台宗であった。最澄の比叡山での修業は、12年にも及んだ。
桓武天皇は、今までになかった天台法華宗を唱える最澄に興味を抱く。折しも、奈良仏教からの脱却を目指していたことから、新しい宗教的指導者を求めてもいた。早速、都へと呼ばれた最澄は桓武天皇の信頼を得ることに成功し、内供奉(ないぐぶ)に任じられた。さらに延暦 21年(802年)には、高雄山寺(現在の神護寺)にて、南都の高僧たち招いて新しい仏教である天台宗の研究会が行われ、最澄は五か月にもわたって天台法華の教えを講じ、高僧たちからも大きな評価を得た。こうした実績から天台宗を開くことを朝廷から正式に認めれた最澄であったが、名声が高まり、責任も大きくなるにつれて、悩みも深くなった。ひとつは天台宗の経典が不備であったこと、さらには自分自身が天台宗の師について直接伝授されていないことであった。
そこで最澄は延暦23年(804年)、ついに遣唐使船に乗って自らが唐へ渡ることを願い出た(38 歳)。天皇からは許可がおり、最澄は還学生(けんがくしょう)として唐(中国)へ渡った。四隻あった船団のうち二隻は難破して行方不明となる程の、厳しい船旅であった。また無事にたどり着いたもう一隻の船には、まだ無名の空海が乗っていた。
最澄は在唐中に天台教学や密教・禅などを精力的に学び、帰国して日本独自の天台宗を開いた。ところが、当時の朝廷では国家を護る仏教として密教が注目され始めており、延暦25年(806年)に天台宗は公認されたものの、二人の年分度者は、一人は天台教学を学ぶ僧、もう一人は密教を学ぶ僧と決められた。最大の庇護者であった桓武天皇も病に臥せっており、密教による病気平癒の加持祈祷を求められた。
最澄の密教は帰国直前に短期間で学んだものであり、正統はものとは言い切れなかった。そのこと自身は最澄自身が一番自覚しており、最澄は葛藤を抱えることとなった。さらに同じ遣唐使船で唐へ渡った空海が密教の正統な伝承者として帰国したことを知り、その請来目録を見たときに、最澄は空海の持ち帰った価値を確信した。意を決した最澄は朝廷に働きかけて空海の入洛を促し、さらに僧として 8 歳年下で実績、名声ともに格下の空海に頭を下げて弟子となり、神護寺にいた空海に密教を学んだ。
晩年の最澄は、比叡山で修行した者が正式な僧になる(=戒壇院で受戒する)ことができるように、戒壇院を設けることに尽力した。しかし旧仏教(奈良)の抵抗で設立が認められず、弘仁13年(822年)6 月 4 日、56 歳でついに最期の時を迎えた。没後 7日目、念願の戒壇院設立が認められ、以後、比叡山は多くの優れた僧を生み出し「日本仏教の母なる山」となった。
最澄は死の直前に「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ」と言い残している。 最澄の死後、弘仁 14年(823年)に「延暦寺」の寺号を嵯峨天皇から与えられ、貞観8年(866年)に「伝教大師」の大師号を清和天皇から与えられた。
【 天台宗 概略 】
宗 祖:最澄(伝教大師)
本 尊:釈迦牟尼仏ほか
経 典:法華経ほか
総本山:延暦寺(滋賀県)
全 国:中尊寺(岩手県)輪王寺(栃木県)
信徒数:末寺・信徒数 約 4500 寺 信徒数 約 360 万人
※画像:比叡山延暦寺東塔大講堂 大日如来像
■ 最澄
天平神護2年(766年)もしくは神護景雲元年(767年- 822年)〈弘仁13年〉。平安時代初期の日本の仏教僧。天台宗の開祖であり、伝教大師。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野。唐(中国)に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
同寺の大講堂で開かれ、森川宏映天台座主が大導師を務めた。天台宗の阿部昌宏宗務総長は「コロナ禍で閉ざされた人心の闇を照らすため、伝教大師様のご誓願『浄仏国土』(仏の世界)の実現に共に邁進しましょう」と話した。
最澄が供えた灯明が始まりとされ、総本堂・根本中堂で1200年以上ともり続けているという「不滅の法灯」が分灯され、大講堂に運ばれた。最澄の御影(肖像)も掲げられた。「油断をするな」という言葉は「法灯の油を断ってはいけない」から生まれた。
最澄は、自らの誓いを「願文」として記している。
第一、自分が真の仏道を修行した仏教者にならないうちは絶対、世間に出ない。
第二、真理を明らかにできないうちは知識や能力を発揮しない。
第三、戒律を完全に守れないうちは信者の布施にはあずからない。
第四、一切の執着から脱した境地を得ないうちは世俗の仕事をしたり交際したりしない。
第五、修行によって得た功徳は、自分ひとりのものとせずすべてのひとに分け与えたい。
最澄の考えの根本は「利他」であり、自分のことは後回しにして、すべての人が救われることを目指す大乗仏教の菩薩として生きる道を模索した。その中でついに辿り着いたのが、一切衆生を救済することが論証された法華経の教えであり、これに基づいて隋の智顗(ちぎ)が 6世紀に確立し、立宗した中国天台宗であった。最澄の比叡山での修業は、12年にも及んだ。
桓武天皇は、今までになかった天台法華宗を唱える最澄に興味を抱く。折しも、奈良仏教からの脱却を目指していたことから、新しい宗教的指導者を求めてもいた。早速、都へと呼ばれた最澄は桓武天皇の信頼を得ることに成功し、内供奉(ないぐぶ)に任じられた。さらに延暦 21年(802年)には、高雄山寺(現在の神護寺)にて、南都の高僧たち招いて新しい仏教である天台宗の研究会が行われ、最澄は五か月にもわたって天台法華の教えを講じ、高僧たちからも大きな評価を得た。こうした実績から天台宗を開くことを朝廷から正式に認めれた最澄であったが、名声が高まり、責任も大きくなるにつれて、悩みも深くなった。ひとつは天台宗の経典が不備であったこと、さらには自分自身が天台宗の師について直接伝授されていないことであった。
そこで最澄は延暦23年(804年)、ついに遣唐使船に乗って自らが唐へ渡ることを願い出た(38 歳)。天皇からは許可がおり、最澄は還学生(けんがくしょう)として唐(中国)へ渡った。四隻あった船団のうち二隻は難破して行方不明となる程の、厳しい船旅であった。また無事にたどり着いたもう一隻の船には、まだ無名の空海が乗っていた。
最澄は在唐中に天台教学や密教・禅などを精力的に学び、帰国して日本独自の天台宗を開いた。ところが、当時の朝廷では国家を護る仏教として密教が注目され始めており、延暦25年(806年)に天台宗は公認されたものの、二人の年分度者は、一人は天台教学を学ぶ僧、もう一人は密教を学ぶ僧と決められた。最大の庇護者であった桓武天皇も病に臥せっており、密教による病気平癒の加持祈祷を求められた。
最澄の密教は帰国直前に短期間で学んだものであり、正統はものとは言い切れなかった。そのこと自身は最澄自身が一番自覚しており、最澄は葛藤を抱えることとなった。さらに同じ遣唐使船で唐へ渡った空海が密教の正統な伝承者として帰国したことを知り、その請来目録を見たときに、最澄は空海の持ち帰った価値を確信した。意を決した最澄は朝廷に働きかけて空海の入洛を促し、さらに僧として 8 歳年下で実績、名声ともに格下の空海に頭を下げて弟子となり、神護寺にいた空海に密教を学んだ。
晩年の最澄は、比叡山で修行した者が正式な僧になる(=戒壇院で受戒する)ことができるように、戒壇院を設けることに尽力した。しかし旧仏教(奈良)の抵抗で設立が認められず、弘仁13年(822年)6 月 4 日、56 歳でついに最期の時を迎えた。没後 7日目、念願の戒壇院設立が認められ、以後、比叡山は多くの優れた僧を生み出し「日本仏教の母なる山」となった。
最澄は死の直前に「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ」と言い残している。 最澄の死後、弘仁 14年(823年)に「延暦寺」の寺号を嵯峨天皇から与えられ、貞観8年(866年)に「伝教大師」の大師号を清和天皇から与えられた。
【 天台宗 概略 】
宗 祖:最澄(伝教大師)
本 尊:釈迦牟尼仏ほか
経 典:法華経ほか
総本山:延暦寺(滋賀県)
全 国:中尊寺(岩手県)輪王寺(栃木県)
信徒数:末寺・信徒数 約 4500 寺 信徒数 約 360 万人
※画像:比叡山延暦寺東塔大講堂 大日如来像
■ 最澄
天平神護2年(766年)もしくは神護景雲元年(767年- 822年)〈弘仁13年〉。平安時代初期の日本の仏教僧。天台宗の開祖であり、伝教大師。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野。唐(中国)に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。