遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

聖徳太子

2021年04月06日
今年は、聖徳太子の1400回忌にあたる。100年に1度の節目、奈良の世界遺産・法隆寺では4月3~5日の日程で遠忌法要があった。初日の3日は、金堂や五重塔がある西院伽藍で法要が営まれ、県内外の寺社の関係者など450人余りが参列した。法要では鮮やかな衣装をまとった4人の子供達が、極楽にいるとされる鳥にふんし、雅楽に合わせて華麗な舞を奉納した。その後、法隆寺の古谷正覚住職が、聖徳太子の事績をたたえる「表白」を読み上げ、遺徳を偲んだ。

100年前の大正時代には、実業家の渋沢栄一が1300年遠忌法要の実現に尽力した。法隆寺は明治初期、政府が出した上知令で領地を没収され、寺の維持が、困難であった。1878年(明治11年)宝物を皇室に献納し、下賜された1万円で伽藍や寺宝を守ってきた。1300年遠忌法要の実現には、財政支援が必要だった。渋沢は法要の3年前の1918年(大正7年)奉賛会をつくると、今の上皇の祖父の久邇宮邦彦殿下を総裁に、紀伊徳川家の徳川頼倫15代当主を会長にたて、渋沢は副会長に就いた。法要後の1934年(昭和9年)当時の文部省は、法隆寺を国として守っていく法隆寺国宝保存事業部を設けた。

当時、聖徳太子を陰から支えた忍者である大伴細人は、飛鳥時代に活躍し日本で初めての忍者とされる。その理由は、甲賀の忍術書『忍術應義傳』において、細人を初めて「志能備(しのび・または志能便)」と呼んでいたことに由来する。これがのちの「忍び」、すなわち忍者の原型となった。

大伴細人を用いたのは、推古天皇の摂政を務めていた聖徳太子であったとされる。『忍術應義傳巻』などによれば587年、推古天皇から実権を奪おうとした物部守屋の動向を探っていたのが、甲賀の馬杉に住んでいた細人(低い官位)とされている。

伝書によれば、大伴細人は陰謀を用いて物部守屋を誘き出し、討伐したとされている。「聖徳太子は、一度に複数の人の話を聞き分けることができた」という語り伝えは、細人の働きであったともされている。大伴細人は、聖徳太子の側近として仕え、太子の裁判の下調査を担当したとされている。太子は、大友細人を志能便(情報の入手に志す者の意)と呼び重用した。

当時は、甲賀流、伊賀流といった忍者の流派または体系は生まれていなかった。しかし、忍術書『忍術應義傳巻』には、大伴細人を『甲賀郡博識廣智之人』として記載しており、甲賀の地にゆかりのある人物だったことが憶測できる。甲賀に残る郷土資料『甲賀郡由緒概史略』や『辻氏家伝』によれば、忍術の秘伝書『忍術奥義之巻』をまとめたのは大友細人されている。

『日本書紀』推古天皇9年(601年)9月の条には、新羅の忍者・迦摩多を対馬(長崎県対馬市)で捕えたという記述がある。内政、外交の両面での軍事的緊張は、朝廷が大陸系の忍術を導入するきっかけとなった。推古天皇10(602)年10月の条によると、百済の僧侶・観勒が遁甲や方術の書物を献上している。忍術に関わる記述もあったことから、朝廷は大友村主高聡(おおとものむらすぐりたかさと・甲賀伴氏の遠祖)を観勒に師事させて忍術を学ばせた。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。

甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。

※画像:聖徳太子1400回忌(法隆寺)



■ 聖徳太子
飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度を採り入れ、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立。「三経義疏」(『法華義疏』(伝推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝推古天皇21年(613年))を著し、法隆寺・四天王寺などを建立。

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。