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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
日本遺産認定「忍びの里 伊賀・甲賀〜リアル忍者を求めて〜」
2020年06月20日
文化庁は、令和2年度「日本遺産」認定において「忍びの里 伊賀・甲賀〜リアル忍者を求めて〜」(平成 29 年度認定)の構成文化財に、江戸幕府の鉄砲隊「甲賀百人組」にゆかりのある五ケ所の寺(甲賀市:長福寺・称名寺・多聞寺・唯称寺・慈眼寺)を追加認定した。
地域の歴史的魅力や特色を通じて、我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として、文化庁が認定するものである。有形や無形の様々な文化財群を地域が主体となって、総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としている。
甲賀百人組は、幕府お抱えの鉄砲隊であった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの直前、伏見城で徳川方として戦うも、多くの戦死者を出した「甲賀衆」がそのルーツである。
百人組ゆかりの甲賀の五ヶ寺(長福寺・称名寺・多聞寺・唯称寺・慈眼寺)は、伏見籠城戦から250年目にあたる嘉永2年(1849年)百人組与力・同心の代表者が訪れ、籠城戦で戦死した先祖の250回忌法要を徳川幕府の援助により行った。江戸に移住していた甲賀百人組と甲賀にいた甲賀古士は、時間や場所を超えたつながりがあったため、法要を開催することができた。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行うことであり、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
伏見城籠城戦で戦死した甲賀武士80名の遺族を中心に編成された江戸甲賀百人組のうち、梅田勘十郎組九人の先祖の位牌は、長福寺に保存されている。堂内には、重要文化財の聖観音座像と子安地蔵が安置されており、聖観音座像の高さは92.4cmの檜の一本造りで、宝冠をいただき、眉間には水晶をはめ込み、下ぶくれの小さな口もとは穏やかな顔つきである。寺伝では、平安初期の大同元年(806年)比良の僧天長比丘(高僧天長)によって長正庵という庵をつくられたと伝わっている。
足利時代の永享11年(1439年)に火災に遭い、本尊の聖観世音を除き、すべての堂塔を焼失したが、翌永享12年(1440年)に本堂のみ再建され観音像を改めて祀りした。しかし、元亀2年(1571年)に戦国の火は田緒野にも及び、二度の火災にあい、再び観音像だけが罹災を免れた。
その後、貞享3年(1686年)阿弥陀如来像を迎え、浄土宗に転じ元覚が再興した。奇跡的に二度の火災を逃れた聖観音座像は、別棟に観音堂を建て祀ることになるが、昭和62年(1987年)に檀家の篤志により、現在の御堂に移されている。
【 長福寺の概要 】
山 号:遊住山
院 号:南見院
寺 号:長福寺
本 尊:阿弥陀如来
住 所:滋賀県甲賀市甲賀町田堵野1008
宗 派:浄土宗
備 考:甲賀西国観音霊場第七番札所
【 甲賀由緒之祖士位牌 】
所 属:江戸青山甲賀組
与 力:梅田勘十郎組下之分
由 緒:杉井孫八郎之組 家督相続之姓名:土山得左衛門
岡本佐衛門之組 遠藤左太夫
岡本長三郎之組 同上
西村五郎作之組 後藤橘次郎
服部伸弥之組 小山伊兵衛
服部徳左衛門
小嶋五郎左衛門之組 斉藤定次郎
藤林九左衛門之組 刈部太兵衛
杉井四郎之組 真下平四郎
鵜飼八衛門之組 為貝猶左衛門
【 江戸青山甲賀町百人与力同心姓名録 】
与 力:梅田勘十郎組
先 祖:杉井源八郎 家督相続之姓名:土山得左衛門
岡本長三郎討死 遠藤左太夫
服部仲弥 小山伊兵衛
服部仲弥 服部徳右衛門
西村五郎作 後藤橘次郎
小嶋五郎衛門 斉藤定治郎
藤林九衛門 刈部太兵衛
杉井四郎 真下平四良
鵜飼八衛門 為貝猶右衛門
※画像:長福寺(甲賀市)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
地域の歴史的魅力や特色を通じて、我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として、文化庁が認定するものである。有形や無形の様々な文化財群を地域が主体となって、総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としている。
甲賀百人組は、幕府お抱えの鉄砲隊であった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの直前、伏見城で徳川方として戦うも、多くの戦死者を出した「甲賀衆」がそのルーツである。
百人組ゆかりの甲賀の五ヶ寺(長福寺・称名寺・多聞寺・唯称寺・慈眼寺)は、伏見籠城戦から250年目にあたる嘉永2年(1849年)百人組与力・同心の代表者が訪れ、籠城戦で戦死した先祖の250回忌法要を徳川幕府の援助により行った。江戸に移住していた甲賀百人組と甲賀にいた甲賀古士は、時間や場所を超えたつながりがあったため、法要を開催することができた。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行うことであり、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
伏見城籠城戦で戦死した甲賀武士80名の遺族を中心に編成された江戸甲賀百人組のうち、梅田勘十郎組九人の先祖の位牌は、長福寺に保存されている。堂内には、重要文化財の聖観音座像と子安地蔵が安置されており、聖観音座像の高さは92.4cmの檜の一本造りで、宝冠をいただき、眉間には水晶をはめ込み、下ぶくれの小さな口もとは穏やかな顔つきである。寺伝では、平安初期の大同元年(806年)比良の僧天長比丘(高僧天長)によって長正庵という庵をつくられたと伝わっている。
足利時代の永享11年(1439年)に火災に遭い、本尊の聖観世音を除き、すべての堂塔を焼失したが、翌永享12年(1440年)に本堂のみ再建され観音像を改めて祀りした。しかし、元亀2年(1571年)に戦国の火は田緒野にも及び、二度の火災にあい、再び観音像だけが罹災を免れた。
その後、貞享3年(1686年)阿弥陀如来像を迎え、浄土宗に転じ元覚が再興した。奇跡的に二度の火災を逃れた聖観音座像は、別棟に観音堂を建て祀ることになるが、昭和62年(1987年)に檀家の篤志により、現在の御堂に移されている。
【 長福寺の概要 】
山 号:遊住山
院 号:南見院
寺 号:長福寺
本 尊:阿弥陀如来
住 所:滋賀県甲賀市甲賀町田堵野1008
宗 派:浄土宗
備 考:甲賀西国観音霊場第七番札所
【 甲賀由緒之祖士位牌 】
所 属:江戸青山甲賀組
与 力:梅田勘十郎組下之分
由 緒:杉井孫八郎之組 家督相続之姓名:土山得左衛門
岡本佐衛門之組 遠藤左太夫
岡本長三郎之組 同上
西村五郎作之組 後藤橘次郎
服部伸弥之組 小山伊兵衛
服部徳左衛門
小嶋五郎左衛門之組 斉藤定次郎
藤林九左衛門之組 刈部太兵衛
杉井四郎之組 真下平四郎
鵜飼八衛門之組 為貝猶左衛門
【 江戸青山甲賀町百人与力同心姓名録 】
与 力:梅田勘十郎組
先 祖:杉井源八郎 家督相続之姓名:土山得左衛門
岡本長三郎討死 遠藤左太夫
服部仲弥 小山伊兵衛
服部仲弥 服部徳右衛門
西村五郎作 後藤橘次郎
小嶋五郎衛門 斉藤定治郎
藤林九衛門 刈部太兵衛
杉井四郎 真下平四良
鵜飼八衛門 為貝猶右衛門
※画像:長福寺(甲賀市)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。