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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
梅田杢之丞 甲賀百人武士
2021年07月24日
遠藤宗家が所属していた甲賀百人組とは、江戸幕府の鉄砲百人組の一つで、江戸の青山甲賀町(現在の神宮球場近辺)に集住した。与力二十人、同心百人で構成され、うち甲賀出身者は与力十人と同心百人全員であった。甲賀組は関ヶ原合戦の後、伏見城籠城戦で戦死した者の子孫を中心に結成された。
甲賀百人組の梅田杢之丞(うめだもくのじょう)与力は『甲賀郡志 上巻』の第六編 町村、第十三章 油日村、第一節 油日に「(前略)天正十三年水口岡山城主中村一氏の領邑に帰し尋いで増田右衛門長盛、長束大蔵大輔正家之を領し、慶長五年徳川氏の直属となり二分して一は竹林左衛門、梅田杢之丞、望月助之丞、山中治左衛門、瀧勘左衛門、和田善左衛門、山岡太郎左衛門等の俸邑となり、一は幕領に属し(後略)」とある。
また、『甲賀郡志 下巻』の第二十編 人物、第十三章 油日村に「梅田治俊」の章があり「治俊は本郡田緒野今油日村大字に生まれ通称杢之丞と云う。年長じて諸方を周遊し知名の剣客を歴訪して刀法を学び、数年の後本心鏡智流槍法の大家樫原重俊の門に入り一意研究して怠らず其の技術大に進めり。」とあり、慶長五年(1600年)8月徳川家康公と上杉景勝の戦で治俊が戦死したので「子治忠父の名を襲ぎて杢之丞とし麾下の士たり。天和二年八月一日碑を田緒野に建て冥福を修む。宝歴の頃江戸に木川正信と云うものあり樫原氏の門人にして名声都下に鳴る。治忠請うて其の弟子となり研究すること十余年此技を以て名を海内に顕さんと意を決し油日神社に祈願する(後略)」とある。
『田緒野誌』の17.田緒野のむかし話には「槍の名人、梅田勝右エ門さん」の章があり「長福寺観音堂の西側に梅田勝右エ門さんの石碑が祭られている。この石碑は天正年間に上田緒野(旧宏陽産業跡地)から移転されたもので(中略)息子、治忠は父(治俊)の名を襲いで杢之允と称し、麾下の士となり、天和2年8月1日、田緒野に碑を建て冥福を祈る。(後略)」とある。同頁に「梅田梅田勝右エ門さんの碑」の写真が掲載されている。
『ふるさとあぶらひ』の第二章沿革 五、甲賀武士と油日の「槍の奉納」の章があり、「梅田治忠 杢之允と称す、父治俊は諸国剣客を歴訪して神道流槍術の師樫原重俊の門に入って県債を重ね槍術の極意を修得、徳川家康の麾下となり千六百年伏見城で憤死した。その子治俊も木川正信の門入り鍵槍の術を研鑽すること十数年父治俊に劣らぬ名人たらんとして油日神社に十数日の祈願をした、遂に本心鏡智流を創始、槍術の大家となった人である。」とある。
『甲賀町史 資料編』の人物誌の十二 田緒野に「梅田治俊・治忠」の章があり、上記の資料と同様の解説の後「長福寺境内に梅田父子の石碑が建立されている。」とある。なお『日本武道全集 第7巻』同朋舎出版1982年刊、『日本武道全集 第6巻』人物往来社1967年刊にも梅田治忠の記述が見られる。
流祖梅田治忠神道碑について『藤堂藩の年々記録 下』(村林 正美/校訂 三重県郷土資料刊行会1985、241ページ)に梅田治忠墓碑の隣に建てられた神道碑について記述がある。また、服部家には、梅田杢治忠の事績について述べた「梅田先生碑銘」という冊子がある。安永4年(1775年)三月、本心鏡智流宗家五代梅田九左衛門盛香によって、江戸四谷松厳寺、流祖梅田治忠墓碑の隣に建てられた神道碑の写しである。これは、七代服部源蔵保辰の高弟であった吉村長兵衛によって書き写されたものである。吉村は嘉永五年に藩命を帯び、師と共に槍術修業に鹿児島へ向う。途中、師服部源蔵保辰が長崎で急死した。このあとも、吉村は一人鹿児島を訪ね、宗家梅田氏のもとで技の鍛錬を積む。そしてこのとき、宗家控えを写し持ち帰ったのが「梅田先生碑銘」である。
百人組ゆかりの甲賀の五ヶ寺(長福寺・称名寺・多聞寺・唯称寺・慈眼寺)は、伏見籠城戦から250年目にあたる嘉永2年(1849年)百人組与力・同心の代表者が訪れ、籠城戦で戦死した先祖の250回忌法要を徳川幕府の援助により行った。江戸に移住していた甲賀百人組と甲賀にいた甲賀古士は、時間や場所を超えたつながりがあったため、法要を開催することができた。
長福寺の創建は平安時代の大同年間(806~810年)、天長により開かれたのが始まりとされている。長福寺の本尊である木造聖観音坐像は恵心僧都が彫り込んだと伝えられるもので像高92.4cm、檜材、一木造、漆箔、大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されている。伏見城籠城戦で戦死した甲賀武士80名の遺族を中心に編成された江戸甲賀百人組のうち、梅田杢之丞九人の先祖の位牌・供養塔は、長福寺に保存されている。この梅田一族は、本心鏡智流の槍術の祖である。
【 江戸青山甲賀町百人与力同心姓名録 】
与 力:梅田杢之丞支配篠山組
先 祖:佐介 家督相続之姓名:篠山組 長野宇右衛門
佐太夫 高峯組 和田忠五郎
小鶴五郎右衛門 高峯組 斉藤北三郎
九郎右衛門 篠山組 阿部九郎左衛門
七郎右衛門討死 望月組 渡邊傅兵衛
四郎右衛門 梅田組 杉井隆太郎
万右衛門 篠山組 勝矢幸蔵
三太夫 篠山組 阿早田甚之丞
惣兵衛 篠山組 五林三治郎
位 牌:長福寺
供養塔:長福寺
石 碑:多聞寺(岩田藤蔵を含む石碑)
【 長福寺の概要 】
山 号:遊住山
院 号:南見院
寺 号:長福寺
本 尊:阿弥陀如来
住 所:滋賀県甲賀市甲賀町田堵野1008
宗 派:浄土宗
備 考:甲賀西国観音霊場第七番札所
【 多聞寺の概要 】
山 号:福寿山
院 号:吉祥院
寺 号:多聞寺
本 尊:阿弥陀如来
住 所:滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野890番
宗 派:浄土宗
※画像:長福寺
■ 梅田杢之丞
寛永3年-元禄7年(1626~1694)。江戸時代前期の槍術家。本心鏡智流鍵槍の祖。名は治忠。父は甲賀組与力の六郎大夫治重。樫原流木川市郎左衛門正信に入門し、樫原流の長鍵槍を修める。さらに創意工夫を加えて本心鏡智流を称した。使用した鍵槍は、総長二間(約3.6メートル)の直槍(すやり)の太刀打ちに鉤(かぎ)形の鉄具を固着させたが、その鉄具の表面に雁木やすり目を刻み付け、相手の槍を挟みやすくしていた。寛文年中(1661~73)幕府にその実力を認められ、甲賀組与力に採用された。元禄7年8月没、69歳。次男の梅田治繁は、江戸時代中期の薩摩藩の藩士、槍術家。本心鏡智流槍術を薩摩藩に伝えた。
甲賀百人組の梅田杢之丞(うめだもくのじょう)与力は『甲賀郡志 上巻』の第六編 町村、第十三章 油日村、第一節 油日に「(前略)天正十三年水口岡山城主中村一氏の領邑に帰し尋いで増田右衛門長盛、長束大蔵大輔正家之を領し、慶長五年徳川氏の直属となり二分して一は竹林左衛門、梅田杢之丞、望月助之丞、山中治左衛門、瀧勘左衛門、和田善左衛門、山岡太郎左衛門等の俸邑となり、一は幕領に属し(後略)」とある。
また、『甲賀郡志 下巻』の第二十編 人物、第十三章 油日村に「梅田治俊」の章があり「治俊は本郡田緒野今油日村大字に生まれ通称杢之丞と云う。年長じて諸方を周遊し知名の剣客を歴訪して刀法を学び、数年の後本心鏡智流槍法の大家樫原重俊の門に入り一意研究して怠らず其の技術大に進めり。」とあり、慶長五年(1600年)8月徳川家康公と上杉景勝の戦で治俊が戦死したので「子治忠父の名を襲ぎて杢之丞とし麾下の士たり。天和二年八月一日碑を田緒野に建て冥福を修む。宝歴の頃江戸に木川正信と云うものあり樫原氏の門人にして名声都下に鳴る。治忠請うて其の弟子となり研究すること十余年此技を以て名を海内に顕さんと意を決し油日神社に祈願する(後略)」とある。
『田緒野誌』の17.田緒野のむかし話には「槍の名人、梅田勝右エ門さん」の章があり「長福寺観音堂の西側に梅田勝右エ門さんの石碑が祭られている。この石碑は天正年間に上田緒野(旧宏陽産業跡地)から移転されたもので(中略)息子、治忠は父(治俊)の名を襲いで杢之允と称し、麾下の士となり、天和2年8月1日、田緒野に碑を建て冥福を祈る。(後略)」とある。同頁に「梅田梅田勝右エ門さんの碑」の写真が掲載されている。
『ふるさとあぶらひ』の第二章沿革 五、甲賀武士と油日の「槍の奉納」の章があり、「梅田治忠 杢之允と称す、父治俊は諸国剣客を歴訪して神道流槍術の師樫原重俊の門に入って県債を重ね槍術の極意を修得、徳川家康の麾下となり千六百年伏見城で憤死した。その子治俊も木川正信の門入り鍵槍の術を研鑽すること十数年父治俊に劣らぬ名人たらんとして油日神社に十数日の祈願をした、遂に本心鏡智流を創始、槍術の大家となった人である。」とある。
『甲賀町史 資料編』の人物誌の十二 田緒野に「梅田治俊・治忠」の章があり、上記の資料と同様の解説の後「長福寺境内に梅田父子の石碑が建立されている。」とある。なお『日本武道全集 第7巻』同朋舎出版1982年刊、『日本武道全集 第6巻』人物往来社1967年刊にも梅田治忠の記述が見られる。
流祖梅田治忠神道碑について『藤堂藩の年々記録 下』(村林 正美/校訂 三重県郷土資料刊行会1985、241ページ)に梅田治忠墓碑の隣に建てられた神道碑について記述がある。また、服部家には、梅田杢治忠の事績について述べた「梅田先生碑銘」という冊子がある。安永4年(1775年)三月、本心鏡智流宗家五代梅田九左衛門盛香によって、江戸四谷松厳寺、流祖梅田治忠墓碑の隣に建てられた神道碑の写しである。これは、七代服部源蔵保辰の高弟であった吉村長兵衛によって書き写されたものである。吉村は嘉永五年に藩命を帯び、師と共に槍術修業に鹿児島へ向う。途中、師服部源蔵保辰が長崎で急死した。このあとも、吉村は一人鹿児島を訪ね、宗家梅田氏のもとで技の鍛錬を積む。そしてこのとき、宗家控えを写し持ち帰ったのが「梅田先生碑銘」である。
百人組ゆかりの甲賀の五ヶ寺(長福寺・称名寺・多聞寺・唯称寺・慈眼寺)は、伏見籠城戦から250年目にあたる嘉永2年(1849年)百人組与力・同心の代表者が訪れ、籠城戦で戦死した先祖の250回忌法要を徳川幕府の援助により行った。江戸に移住していた甲賀百人組と甲賀にいた甲賀古士は、時間や場所を超えたつながりがあったため、法要を開催することができた。
長福寺の創建は平安時代の大同年間(806~810年)、天長により開かれたのが始まりとされている。長福寺の本尊である木造聖観音坐像は恵心僧都が彫り込んだと伝えられるもので像高92.4cm、檜材、一木造、漆箔、大変貴重な事から国指定重要文化財に指定されている。伏見城籠城戦で戦死した甲賀武士80名の遺族を中心に編成された江戸甲賀百人組のうち、梅田杢之丞九人の先祖の位牌・供養塔は、長福寺に保存されている。この梅田一族は、本心鏡智流の槍術の祖である。
【 江戸青山甲賀町百人与力同心姓名録 】
与 力:梅田杢之丞支配篠山組
先 祖:佐介 家督相続之姓名:篠山組 長野宇右衛門
佐太夫 高峯組 和田忠五郎
小鶴五郎右衛門 高峯組 斉藤北三郎
九郎右衛門 篠山組 阿部九郎左衛門
七郎右衛門討死 望月組 渡邊傅兵衛
四郎右衛門 梅田組 杉井隆太郎
万右衛門 篠山組 勝矢幸蔵
三太夫 篠山組 阿早田甚之丞
惣兵衛 篠山組 五林三治郎
位 牌:長福寺
供養塔:長福寺
石 碑:多聞寺(岩田藤蔵を含む石碑)
【 長福寺の概要 】
山 号:遊住山
院 号:南見院
寺 号:長福寺
本 尊:阿弥陀如来
住 所:滋賀県甲賀市甲賀町田堵野1008
宗 派:浄土宗
備 考:甲賀西国観音霊場第七番札所
【 多聞寺の概要 】
山 号:福寿山
院 号:吉祥院
寺 号:多聞寺
本 尊:阿弥陀如来
住 所:滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野890番
宗 派:浄土宗
※画像:長福寺
■ 梅田杢之丞
寛永3年-元禄7年(1626~1694)。江戸時代前期の槍術家。本心鏡智流鍵槍の祖。名は治忠。父は甲賀組与力の六郎大夫治重。樫原流木川市郎左衛門正信に入門し、樫原流の長鍵槍を修める。さらに創意工夫を加えて本心鏡智流を称した。使用した鍵槍は、総長二間(約3.6メートル)の直槍(すやり)の太刀打ちに鉤(かぎ)形の鉄具を固着させたが、その鉄具の表面に雁木やすり目を刻み付け、相手の槍を挟みやすくしていた。寛文年中(1661~73)幕府にその実力を認められ、甲賀組与力に採用された。元禄7年8月没、69歳。次男の梅田治繁は、江戸時代中期の薩摩藩の藩士、槍術家。本心鏡智流槍術を薩摩藩に伝えた。