遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

望月嘉左衛門 甲賀百人武士

2021年07月24日
遠藤宗家が所属していた甲賀百人組とは、江戸幕府の鉄砲百人組の一つで、江戸の青山甲賀町(現在の神宮球場近辺)に集住した。与力二十人、同心百人で構成され、うち甲賀出身者は与力十人と同心百人全員であった。甲賀組は関ヶ原合戦の後、伏見城籠城戦で戦死した者の子孫を中心に結成された。

甲賀百人組の望月嘉左衛門与力は、慶安3年(1650年)慈眼寺を建立した。望月嘉左衛門の父 津之助は、慶長3年(1600年)伏見城の戦いの功績により、甲賀組の与力となった。その際に津之助は、この野田に200石余りの所領を賜った。その後、嫡男 嘉左衛門は、父の跡を継ぎ、甲賀組与力となった。

徳川幕府が開かれた頃は、甲賀組は郷土甲賀に在住していたが、寛永20年(1643年)徳川幕府の命により、江戸の青山へ移住した。移住した2年後の正保3年(1645年)嘉左衛門は、野田の所領に母の名義で観音堂の建立を発願した。法蓮寺という天台宗の小さな寺だったが、村人総出で本堂や庫裏(くり※住職やその家族の住む場所)を建て、5年後の慶安3年に完成した。甲賀で修行をしたこともあるという永源寺の僧侶を住職として迎え、臨済宗永源寺派の寺院となったのが今の慈眼寺である。

甲賀組が山岡道阿弥に属していた時に、道阿弥に下賜された9千石のうち4千石を甲賀百人組が所領した。望月三之助が、野田に200石を賜ったのはこの頃である。甲賀から江戸の青山百人町に移転する際、宝暦13年(1763年)この所領は現米80石支給と引き換えに、望月氏の領地ではなくなった。

その後、嘉永2年(1849年)伏見城の戦いで亡くなった先祖の250回忌を地元甲賀にて行うべく、甲賀組の代表者達が先祖ゆかりの寺院に墓参した。当時の甲賀組は甲賀出身の与力10人(その他の与力も合わせると20人)にそれぞれ同心が10人ずつ配属され、与力1人と同心10人で1組を成していた。慈眼寺には望月嘉左衛門組と、縁者と思われる望月藤左衛門組から代表者が訪れた。嘉左衛門組は、同心10名の先祖の名を刻んだ墓碑、藤左衛門組は、同心10名の先祖の名を記した位牌をそれぞれ納めている。墓碑は墓地の奥にあったが、2017年慈眼寺の門近くに移された。

【 江戸青山甲賀町百人与力同心姓名録 】
与 力:望月嘉左衛門組
先 祖:        家督相続之姓名:今西久太夫
    又左衛門            天谷金四郎
    宇兵衛             石川又左衛門
    利田権七郎           戸倉東兵衛
    望月半左衛門          廣瀬佐介
    才兵衛             中野文太夫
    紀右衛門            寺橘九左衛門
    庄太夫             小谷助市
    次郎三郎            蠅田為蔵
    平右衛門            小谷兼次良
石 碑:慈眼寺

与 力:望月藤左衛門組
先 祖:保井麟太    家督相続之姓名:井上源治郎
    大原六左衛門          石黒喜三郎
    壽右衛門            黒川益太郎
    鵜飼甚八郎           綾部寛左衛門
    芥川長八郎           相川富八
    保井藤太            井上直次郎
    疋田久兵衛           田村甚蔵
    山崎漬左衛門          桑原金吾
    和田源市            岡村英治郎
    喜左衛門            黒川茂々太郎
位 牌:慈眼寺 

【 慈眼寺の概要 】
寺 号:慈眼寺
本 尊:聖観世音菩薩
住 所:滋賀県甲賀市甲南町野田469
宗 派:臨済宗永源寺派
備 考:甲賀西国観音霊場第七番札所

※画像:慈眼寺


■ 望月嘉左衛門
甲賀百人組与力。父の津之助は、慶長3年(1600年)伏見城の戦いで功績により甲賀組の与力。その後、嫡男の嘉左衛門は、父の跡を継ぎ、甲賀組与力となる。