遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

信楽焼

2021年07月22日
23日開幕の2020年東京オリンピック・パラリンピックの競技会場が多く立地する臨海副都心地域の公園内には、国立競技場と同じデザインの聖火台が設置された。聖火台の近くには、信楽ブルーも鮮やかな大型の植木鉢、水盤、タイルといった信楽焼が庭園内に設置された。臨海副都心「花と緑」のイベント実行委員事務局の東京湾埠頭株式会社は、日産陶業株式会社が所有する1メートル以上の鉢も作れる世界最大級のろくろを使い、信楽焼特有の 釉薬「 海鼠釉 (なまこゆう)」で濃紺に仕上げた。五葉松などの緑が映え、涼感を与えている。

紫外線や風雨に強い特性を生かし、都市公園や屋上緑化に信楽焼を活用する試みとして、甲賀市信楽町の県工業技術総合センター信楽窯業技術試験場と信楽陶器工業協同組合、東京農大(造園学)の近藤三雄名誉教授が18年前から共同研究している。「信楽坪庭」と銘打ち、東京都目黒区役所や新宿伊勢丹、日比谷公園などに採用されている。

信楽焼とは、天平時代に生まれたと言われる日本六古窯の1つで、聖武天皇が紫香楽宮(しがらきのみや)を作る時に、瓦を焼いたのが始まりと言われている。鎌倉時代中期には主に水瓶などが作られ、室町・安土桃山時代には茶の湯の発達により、茶道具の生産が盛んになった。茶器などの茶道具の名品が生まれ、「茶陶信楽」のわび・さびの味わいは現代にも生きている。江戸時代は徳利や土鍋など、いろいろな生活用の器が作られ商業としても発達した。 大正時代から戦前までは、各家庭で愛用された火鉢が多く製作されていた。明治時代には釉薬の研究と共に、「なまこ釉」を取り入れた信楽焼の火鉢生産がはじまった。その他、神仏器や酒器などの小物陶器や壺、などの大物陶器も生産され、質量ともに大きな発展を遂げた。

昭和に入り、第二次世界大戦末期には金属不足から陶器製品の需要の高まりとともに、火鉢の全国シェアの80%を占めた。1949年には約300軒の窯元により年間2億円の生産を記録した。しかし1950年代に入ると火鉢が各家庭に行き渡ったこと、さらに1970年代にかけて、高度経済成長による生活水準の向上により、電気や石油暖房器具の開発・普及が進み、生活様式の変貌にともない火鉢の需要は減退に見舞われる。しかし、「なまこ釉」を取り入れた、高級盆栽鉢や観葉鉢を生み出すなど品種転換、生産主力の変更に成功した。1976年(昭和51年)には信楽焼は国の伝統工芸品として指定され、狸の置物が代名詞にもなり「陶器の町、信楽」としても親しまれている。

滋賀県甲賀市信楽町周辺で作られている信楽焼は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」と地名のゆかりがある。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。滋賀県甲賀市の五か寺(長福寺・称名寺・多聞寺・唯称寺・慈眼寺)は、甲賀百人組の子孫達により、今も墓石や位牌が大切に守り伝えられている。

※画像:日比谷公園日比谷門(信楽焼)


■ 信楽焼
信楽焼(しがらきやき)は、滋賀県甲賀市信楽町周辺で作られている陶磁器。陶土に木節(きぶし)、実土(みづち)、蛙目(がいろめ)などの粘土や原料を合わせて練るため、コシがでて、肉厚な焼き物や大きな焼き物を造ることが可能。信楽焼の特徴は、粗めの土質を用いて耐火性が高い。焼成する工程によって、ピンクやほのかな赤色に発色し、赤褐色系統の火色(緋色)が生まれる。信楽の白みある土に映える火色(緋色)は「窯あじ」と呼ばれるもの。温度や焚き方によって微妙に変化する窯あじによって、信楽ならではの温かい発色が付く。その表面に「焦げ」や釉薬をつけるため、柔らかい表情の焼き物になる。「焦げ」とは、薪が窯で燃え尽きて積もった灰に埋まった焼き物の裾の部分が、黒褐色に発色すること。焦げは「灰かぶり」とも言われる。茶陶器においては、信楽焼の焦げ部分のさびた趣きが珍重されてる。他の産地では見られない、人の肌のような素朴な温もりや豊かな表情が垣間見える。