遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

武士の相続制度

2021年08月02日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、徳川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。

4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。伏見城籠城戦で戦死した甲賀武士80名の遺族を中心に編成された江戸甲賀百人組のうち、梅田勘十郎組九人の先祖の位牌は、長福寺に保存されている。

武士は、本家及び分家による一族の上首である家督が生まれた。その地位の相続は、本家の相続に帰着する。家の相続人である嫡子は、家業(武士については、主人への奉公人)の相続人である。嫡出長子である嫡子は、生得嫡子となった。出生と同時に、嫡子たる身分を取得する生得の嫡子、生得の嫡子が存在しないか、事故等でその相続ができないときに、父祖が改めてこれを定める取立の嫡子があった。

推古天皇(在位592~628)以前の上代では、神の支配する時代であった。その前期である弥生文化の時代(前2、3世紀~後2世紀ごろ)は、氏上の地位の相続とは火であった。中期(3、4世紀ごろ)には、相続の目的は氏神の祭祀権の相続に変わった。氏上は氏神を祭り、神がかりの状態で神意を宣(の)ることによって、氏を支配できたからである。

後期(5、6世紀ごろ)には神の威力は衰えて、各氏上の地位は天皇によって認められることが重要になった。ここに各氏上が天皇に対して負う業(わざ)が、相続の主たる目的となった。当時、氏の名称はその業の名をつける例だったため、ここに氏の名相続(祖名相続)の観念も生まれた。相続人の選定については、前・中期では神意によることも行われたが、後期になると主として被相続人の意思によることになった。

律令時代の上世の相続には、継嗣令(けいしりょう)による相続と戸令(こりょう)応分条による相続とがあった。前者では、継嗣(嫡子)は、大宝令によれば、蔭位(おんい)(父祖のお蔭(かげ)により子孫に位を賜る)の形での位階の相続人であったが、養老令では、中国流の祖先崇拝を中心とする祭祀の相続人に変わった。後者は財産相続であり、養老令の規定では、遺産は被相続人の意思が分明のときはそれによったが、養老令には分明の証拠がない場合の法定相続人とその相続分が定められている。

中世の武士は、本家および分家よりなる一族の上首である家督が、その地位の相続をした。家の相続人は嫡子とよばれたが、嫡子は家業(武士については主人への奉公)の相続人であり、嫡出長子が嫡子となるのが普通(長子相続)であった。これを「生得嫡子」とよんだ。

財産の中心は所領であり、生前に諸子に譲与するのが普通であった。しかし、分割相続を続けると、家領が細分化し、家の実力と名声とが衰えることから、
内部的には分割しながら、外部的には総領(普通は家督)が全体を知行するようにみせる総領制が前期(平安時代後半期)の末ごろ発達した。後期(室町時代)になると総領制も衰え、長男が単独で相続する単独相続制が発達した。室町時代には、また名の相続の観念が発達し、家の相続のことを名字の相続とよんだ。

江戸時代に入ると、武士と庶民の両者は区別された。武士の相続は、家名相続の観念と結合した封禄(ほうろく)の相続(それは家業すなわち奉公によって支持される)であり、長男の単独相続制であった。しかし、相続とはいうものの、被相続人の願い出による封禄の再給にほかならなかった。

庶民の相続では、家業の相続の意味であった。農民は、田畑屋敷の相続、商人では営業に必要な家屋(店)および金銀の相続が行われたが、地方によって異なった。一般的には、分割相続から単独相続へと移った。庶民には名字、家名相続の観念はなかった。これにかわるものとして、襲名があり、商人の間では屋号の相続が行われた。

1869年(明治2年)の版籍奉還により、旧公卿・諸侯(大名)は「華族」、旧幕臣・旧藩士と公卿や寺社に仕えた公卿侍・寺侍・宮侍は「士族」と定められた。その翌3年に旧足軽などの下級士族は「卒族」に分けられた。1877年(明治10年)家禄の制もなくなり、士族・平民が同様の扱いを受けるようになった。江戸時代の武士の制を一般化して、士族・平民を通じた、長男が家産と戸主権を単独に相続する家督相続の制度が生まれた。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。