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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
浄土宗総本山 知恩院
2021年09月03日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の菩提寺である浄土宗寺院の寂照山唯心院高徳寺(山號及別號寂光山唯心院 京都知恩院末)は、晃誉上人居的和尚が元和9年(1623年)に開山した。江戸時代には淳澄、源流、隆察など増上寺学寮出身の僧侶が晋山している。
江戸幕府に入府した徳川家康公の命により、甲賀組の遠藤宗家等が開基家として、天正7年(1579年)赤坂青山北町(現在の北青山)に建立した。その際、甲賀組が信仰の対象としていた浄土宗寺院を近江国の甲賀郡から、江戸に移転した。そのことから、遠藤宗家第十五代当主 遠藤榮(大正天皇侍従)等が、檀家総代を務めた。
知恩院とは承安5年(1175年)浄土宗の開祖法然上人が吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、法然上人がお念仏のみ教えを広め、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山である。正式名称は、華頂山知恩教院大谷寺。江戸時代、浄土宗を信仰した徳川家康公が、同寺を京都における菩提所と定めたことから寺領が拡大され、現在の大伽藍が築かれた。
浄土宗徒であった徳川家康公は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府第二代将軍徳川秀忠公に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、第三代将軍徳川家光公のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院二十五世超誉存牛が松平氏第五代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったといわれている。江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の修行寺である西山浄土宗総本山光明寺(京都府長岡京市)は、浄土宗の開祖法然上人の高弟である証空(證空)(西山国師・西山上人)が、自らが唱える西山義の教えを広めたことに始まる。こうして証空によって唱えられた西山義は、やがて浄土宗西山派として知恩院の浄土宗鎮西派に次ぐ浄土宗内での大派となっていった。
※画像:知恩院・三門(国宝)
【 知恩院の概要 】
山 号:華頂山
宗 派:浄土宗
寺 格:総本山
本 尊:法然上人像(御影堂)、阿弥陀如来(阿弥陀堂)
住 所:京都府京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400
創 建:承安5年(1175年)
開 山:法然
正式名:華頂山知恩教院大谷寺
札所等:法然上人二十五霊場第25番
文化財:本堂・三門・阿弥陀二十五菩薩来迎図ほか(国宝)、大方丈・木造阿弥陀如来立像・木造善導大師立像ほか(重要文化財)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
江戸幕府に入府した徳川家康公の命により、甲賀組の遠藤宗家等が開基家として、天正7年(1579年)赤坂青山北町(現在の北青山)に建立した。その際、甲賀組が信仰の対象としていた浄土宗寺院を近江国の甲賀郡から、江戸に移転した。そのことから、遠藤宗家第十五代当主 遠藤榮(大正天皇侍従)等が、檀家総代を務めた。
知恩院とは承安5年(1175年)浄土宗の開祖法然上人が吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、法然上人がお念仏のみ教えを広め、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山である。正式名称は、華頂山知恩教院大谷寺。江戸時代、浄土宗を信仰した徳川家康公が、同寺を京都における菩提所と定めたことから寺領が拡大され、現在の大伽藍が築かれた。
浄土宗徒であった徳川家康公は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府第二代将軍徳川秀忠公に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、第三代将軍徳川家光公のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院二十五世超誉存牛が松平氏第五代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったといわれている。江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の修行寺である西山浄土宗総本山光明寺(京都府長岡京市)は、浄土宗の開祖法然上人の高弟である証空(證空)(西山国師・西山上人)が、自らが唱える西山義の教えを広めたことに始まる。こうして証空によって唱えられた西山義は、やがて浄土宗西山派として知恩院の浄土宗鎮西派に次ぐ浄土宗内での大派となっていった。
※画像:知恩院・三門(国宝)
【 知恩院の概要 】
山 号:華頂山
宗 派:浄土宗
寺 格:総本山
本 尊:法然上人像(御影堂)、阿弥陀如来(阿弥陀堂)
住 所:京都府京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400
創 建:承安5年(1175年)
開 山:法然
正式名:華頂山知恩教院大谷寺
札所等:法然上人二十五霊場第25番
文化財:本堂・三門・阿弥陀二十五菩薩来迎図ほか(国宝)、大方丈・木造阿弥陀如来立像・木造善導大師立像ほか(重要文化財)
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。