遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

青山星灯篭

2021年09月20日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖が所属していた甲賀百人組は、江戸幕府に入府した徳川家康公の命により、近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷へ移転)に居住した。その際、甲賀組が信仰の対象としていた浄土宗寺院を近江国の甲賀郡から、天正七年(1579年)赤坂青山北町(現在の北青山)に高徳寺を開基家として建立した。そのことから、遠藤宗家第十五代当主遠藤榮(大正天皇侍従)等が、檀家総代を務めた。

青山百人町は、現在の善光寺周辺に位置する旧町名である。(現在の表参道駅周辺)青山百人町の周辺は、江戸時代には武家屋敷の塀に囲まれた昼でも暗いところであった。地名の由来になったのは、江戸城の本丸と大手三門を警備していた甲賀百人武士である与力、同心が、一帯を組屋敷としていたからである。

この百人町では、6月の晦日から7月の晦日まで、家々で盆灯篭を高い棹の先につけて飾る風習があった。二代将軍徳川秀忠公が、江戸城で亡くなった年から始まったとされる。年々、七夕の笹と同じで「高さ」を競うようになり、これを遠くから見ると、百人町の上にたくさんの星が出ているように見え「百人町の星燈籠」または「星提灯」と呼ばれるようになった。

七代将軍徳川家継公が目黒にお成りの帰り道、遠くからこれを目にして、お付の者に尋ねたところ「台徳院(秀忠公)さまの菩提を弔うため、甲賀百人武士の与力・同心たちが続けている」と報告を受け、甲賀百人組に報奨金を下賜された。それ以来「星燈籠」は年中行事となり、この期間青山百人町は江戸の名所になった。歌川広重(二代)の「諸国名所百景」にも描かれ、明治初期頃まで行われていた。 

青山はファッションに代表される流行を発信する街だが、星灯篭のような伝統もあったことから、地元の有志が「土地の記憶」を伝えようと平成二十九年(2017年)青山星灯篭実行委員会を結成し、約150年ぶりに復活させた。青山に事務所を構えるアートディレクターの浅葉克己氏や、明治から続く地域の山陽堂書店等、青山に縁のある人々によって毎年開催されている。


【 青山星灯篭 】 
開催日 :2021年9月20日(月)~9月23日(木) 午後6時から8時まで
会 場 :ののあおやま(東京都港区北青山3-4-3)
入場料 :無料
実行委員:浅葉克己(アートディレクター)
     有賀長人、市川博一(ICHYS GALLERY)
     合原紀子(ブレイン)
     後藤徹(SIG)
     遠山秀子(山陽堂書店)
     水野成美(市街地開発)
     和多利浩一(ワタリウム美術館)


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。