遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

三宝寺池 厳島神社

2021年12月26日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。

東京都練馬区にある三宝寺池の中島に鎮座する厳島神社は、豊嶋氏が石神井在城中に創建したと推定される。江戸時代には、弁天社、水天宮として既に史料に残されている。明治41年(1908年)、大正4年(1915年)近隣の字観音山の稲荷神社、字沼辺愛宕神社、字西村の御嶽神社を合祀。昭和58年(1983 年)現在の社殿が竣工した。

文明9年(1477年)太田道灌公に滅ぼされた豊島氏は、平一揆崩壊後には所領を没収されるが、応永2年(1395年)豊島泰宗に還補されている。泰宗は、石神井豊島氏の本宗家となった。

関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こした応永23年(1416年)上杉禅秀の乱では、豊島氏は足利持氏に味方して入間川の戦い、世谷原の戦いに参陣し、豊島範泰が軍忠状を受けている。この乱では持氏から「忠節の人々」として豊島氏、江戸氏が武功の筆頭とされ、上杉禅秀から没収した所領を受けている。関東管領上杉憲実と対立した持氏は永享の乱で滅び、永享12年(1440年)その遺児が結城氏に擁せられて、下野国結城城で挙兵した。この結城合戦では、豊島大炊介(泰堯)が戦功をあげている。

鎌倉公方は、文安4年(1447年)室町幕府の許しがあって再興され、持氏の遺児の成氏がこれに迎えられた。成氏は上杉氏と対立し、享徳3年(1454年)関東管領上杉憲忠を暗殺した享徳の乱が起きた。成氏が関東諸将に参陣を求めた「豊島三河守」「豊島勘解由左衛門尉」(石神井豊島氏の官途名)宛の参陣催促の書状が現存している。

成氏は幕府軍に敗れて鎌倉を棄て、下総国古河城に拠り、古河公方と呼ばれた。関東管領上杉氏は、これに対抗するために扇谷上杉家家宰の太田道真・道灌父子に岩槻城、河越城、江戸城を築かせた。江戸城は豊島氏の本拠の石神井城に近く、太田氏がこの地に進出したことは、豊島氏の権益を著しく害し、豊島氏と太田氏が対立するようになったと考えられている。

享徳の乱での豊島氏の動向ははっきりしていないが、上杉氏に味方したと考えられている。長禄3年(1459年)武蔵国太田庄の戦いで「豊島弥三郎」「豊島左近将監」が戦功を挙げている。文明3年(1471年)関東管領上杉顕定が上野国館林城を攻撃した時に豊島宣泰、経祐父子が奮戦して感状を受けている。

1476年(文明8年)関東管領山内上杉家の家宰を二代続けて出した白井長尾家の長尾景春が顕定に叛き、豊島氏の当主泰経は景春に加担して石神井城、弟の泰明も平塚城(現在の通説では「練馬城」)で挙兵した。これにより、江戸城と河越城の連絡が絶たれ危機に陥った太田道灌公が文明9年(1477年)豊島方に対して攻撃を開始したため、両者は、江古田原・沼袋で合戦となった。この戦いで豊島方の泰明が戦死するなど惨敗を喫し、それに続く戦いで石神井城も落城した。

文明10年(1478年)泰経は平塚城で再挙するが、太田道灌公の攻撃を受けて落城した。泰経は、小机城に逃れるも再び落城し、豊島氏本宗家は滅亡した。

※画像:三宝寺池 厳島神社


【 概要 】
社 号:厳島神社
祭 神:狭依姫命
相 殿:香具槌命、倉稲魂命、国常立命
境内社:水神社(水波能売神)、穴弁天社(市杵嶋姫命)
住 所:練馬区石神井台1-26

【 練馬の神社による由緒 】
創立年代等不詳。「新編武蔵風土記稿」上石神井村の項に「弁天社 三宝寺池ノ中島ニアリ。神楽堂」「水天宮 池ノ側ニアリ。」とある。弁天社は神仏分離後に厳島神社となる。水天宮は水神社である(当社から東へ50mほどの池畔にある小祠)。厳島神社は昭和56年から境内の護岸工事、57年には社殿の改築工事を始めて58年に鉄筋コンクリート造として竣工した。南の丘の下に洞穴の祠があって穴弁天という。「北豊島郡誌」石神井村の項に「無格社厳島神社。大字上石神井字大門に在り、即ち三宝寺池畔の弁財天なり、石神井案内に曰く、池畔の洞窟、奥深き所には池霊の弁財天像を安置し里人相伝へて尊敬している。冒険の士は一把の松明を携へて暗黒裡陰風凄愴なる辺りに、池霊と相語るも亦快きことではないか」と記されている。雨乞いに際し、本殿に祀り祈願すると必ず雨が降ったという。 (中略)相殿の祭神は明治41年、大正4年に近隣の稲荷神社、愛宕神社、御嶽神社を合祀したものである。

【 東京都神社名鑑による由緒 】
創立年代不詳。『新編武蔵風土記稿』に寄れば、氷川神社の天神・天王・稲荷・弁天社は三宝池中島にあり、隣地氷川神社とともに豊嶋氏石神井在城中の創建と思われる。豊嶋氏隆盛時は、池霊弁財天と呼称し、弁天池といい、流出する小川も弁天川と呼び、往時池底より見いだしたと伝わる蛇体の女神弁財天を安置し、明治維新に至るまで三宝寺持であった。祭神は黒漆塗金縁仏像が御厨子内に奉安されていた。明治四十一年十月二十八日合祀許可を得、同年十二月十六日字観音山の稲荷神社、同月字西村の御嶽神社、同年九月同所字沼辺の稲荷神社、大正五年四月同所字小関の稲荷神社を合祀し、大正八年五月下石神井北有志寄贈の石鳥居一基建設、同十四年六月社殿・幣殿を改築、また同七年六月豊田銀右右衛門・栗原銀三石階段を寄贈、また木橋の架替をなす。


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。