遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤家と三井家の由緒

2022年01月23日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家は、三井宗家との由縁により三井物産、三井物産グループに在職し、人の三井・自由闊達の精神「三井のこころ」である事業精神や先見性、創造性を学んだ。遠藤家と三井家の系譜は古く、家伝によると平安時代の藤原氏から起こったとされる。

遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。京の都(現在の京都市)から遠い湖(浜名湖)という意味で、遠淡海(とほつあはうみ)。それが転じて遠江(とおとうみ)。つまりは浜松市を中心とする静岡県西部エリアのこと。京の都から近い湖(琵琶湖)が近淡海(ちかつあはうみ)、転じて近江(おうみ)、つまりは今の滋賀県。

平安初期の天慶3年(940年)、征東大将軍藤原忠文は、平将門討伐のため坂東に向かっていた。その途中、遠江国に至ったときに平将門の死を知らされている。忠文の孫の藤原為方は「遠藤六郎大夫・摂津守・惣官」となり、以後、藤原氏を出自とするこの遠藤氏は広く栄える。この系統が現在、多くの遠藤姓のルーツとなっている。別に工藤為憲の後裔・相良維兼が、遠江守に任ぜられ遠藤氏を名乗ったとする説もあるが、遠藤家の「遠」は遠州に通じる。

一方、平家の流れを伝える桓武平氏千葉氏族東(とう)氏の遠藤氏もいる。400年に渡って歌い踊り続けられてきた郡上(ぐじょう)踊りで有名な岐阜県郡上市八幡町の八幡山に郡上八幡城がある。八幡町のどこにいても山頂の城が良く見え、旧二の丸跡には「山内一豊と妻の像」が建っている。山内一豊の妻・千代は、弘治2年(1556年)、初代郡上八幡城主・遠藤盛数(えんどうもりかず)の娘として生まれている(浅井氏家臣の若宮友興の子という説もあり定かでない)。

遠藤盛数が郡上八幡城を築くまでは、郡上一円は東氏によって支配されていた。美濃国群上郡二万七千石の領主であった東常慶(とうつねよし)のとき、お家騒動の後、東氏は婿養子の遠藤盛数に滅ぼされる。そこで盛数は東氏の家督を継いだのだが、東氏を名乗らず遠藤を家号としたため、本来藤原氏を出自とする遠藤氏だが、東氏流の桓武平氏となったわけである。そして永禄2年(1559年)、遠藤盛数は八幡山の上に前出の郡上八幡城を築くのであった。郡上藩の当初の藩主が遠藤氏なのは織田信長や豊臣氏の家臣だったが、関ヶ原の戦いで東軍について旧領を安堵された。つまりは、郡上八幡城は、遠藤家の大切なルーツのひとつ。

三井姓の始まりは、平安時代の関白太政大臣である藤原道長の後裔とあるが史実による確証はない。道長の6男長家から五代目の藤原右馬之助信生が平安末期の1100年頃、京都を離れ、近江に移住した際に藤原姓から三井姓を初めて名乗った。三井姓については、信生が琵琶湖の領地を視察中、三つの井戸を見つけ、そこに財宝があったことに由来する。

三井馬之助信生は、近江の地方官に就任後に土着した。三井家は源氏の流れを汲む守護大名である六角佐々木氏に仕えていたことから、信生から十二代目の三井出羽守乗定は、養子を迎えていた。その養子は、三井備中守高久と名乗り、家紋を佐々木氏と同じ四つ目結とした。また、高久以降、三井家の当主は名前に「高」の字を付けるようになった。

高久は琵琶湖の東にある鯰江に居城を構えたが、高久から五代目の三井越後守高安の時代に天下統一を目指した織田信長が、上洛のために近江に攻め入り、六角氏の諸城を攻め落とされたことにより、六角氏は滅亡した。主君を失った高安は近江から伊勢に逃れ、津、松坂などに移り住み、最後に松坂の近くである松ケ島を安住した。高安は、三井グループの祖・三井高利の祖父であり、「三井家の遠祖」である。

後に平安時代の藤原家を同じく由緒にもつ遠藤、三井両家は、江戸へ下ることとなる。遠藤宗家甲賀百人武士は、徳川将軍家の旗本(直参御目見得)として、江戸城大手門百人番所を警備した。三井宗家は、武士を廃業して「越後屋」を開き、後に三井財閥へと発展した。

※画像:『源氏物語絵巻』匂宮 (平安時代後期)


■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。