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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
石原慎太郎 元東京都知事
2022年02月01日
芥川賞作家の石原慎太郎元東京都知事(89歳)が1日午前10時、都内自宅で死去した。葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れの会を開く。
一橋大在学中の55年享楽的な青春群像を描いた「太陽の季節」で文壇にデビュー、芥川賞を受賞し「太陽族」の流行語を生んだ。作品は映画化され、弟の石原裕次郎さんが俳優デビューした。
68年参院選全国区(当時)に自民党から出馬しトップ当選した。72年に衆院に移り、中川一郎氏らとタカ派政策集団「青嵐会」を結成した。環境庁長官や運輸相などを歴任した。89年亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れた。
歯に衣着せぬ発言で知られ、95年の国会議員としての勤続25年表彰の挨拶では「去勢された宦官のような国家になり果てている。その責任は我々政治家にこそある」と語り、衆議院議員を辞職した。
99年の都知事選で当選し、大手銀行への外形標準課税の導入や有害物質を出すディーゼル車への排ガス規制といった独自施策を展開した。中小企業支援のため設立した新銀行東京は一時経営難に陥り、後に民間の地銀と統合した。東京マラソンの実現を主導し、オリンピック誘致にも取り組んだ。12年4月には沖縄県の尖閣諸島の購入計画を表明し、国有化のきっかけをつくった。
4期目途中の12年10月に都知事を辞職し、太陽の党を結成して橋下徹大阪市長(当時)が率いる日本維新の会に合流、代表に就任した。同年の衆院選で国政に返り咲いた。14年に次世代の党を立ち上げ、同年の衆院選で落選、政界から引退した。引退後も精力的な講演や執筆活動も続け、裕次郎氏をテーマにした「弟」や、田中角栄元首相を描いた「天才」などがベストセラーになった。
遠藤 潔は、東京都屋外広告物条例の都議会決議案(奥山則夫第34代都議会議長)を推進し、00年4月東京都内を走るバス、電車、タクシー、広告宣伝車等の車体利用広告を車体全面に掲載した都バスが運行される運びとなり、石原都政をお支えした。
従来は車体全面に広告を掲載し、それを運行させるということは条例により規制されていた。そのことから、石原都政は「目に見える政治」に着手し始め、この政策により1年目には約5億円の増収をもたらした。これは東京都の財政規模からすれば微々たるものではあるが、それ以上に都庁職員の意識改革(経営感覚)を狙ったものであった。「税金で養ってもらっていればよい」という思考から「活用できるものは積極的に活用し、自ら財源を確保しよう」という思考へとシフトを促すものであった。
遠藤 潔が会員である日本記者クラブによる東京都の築地市場移転問題で、石原元都知事が登場したのが最後の会見となった。(17年3月3日)
国民と共に心から哀悼の意を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げる。
■ 石原慎太郎
56年一橋大学法学部卒業、68年参議院議員初当選、72年衆議院議員初当選(以後、連続8回当選)、76年環境庁長官、87年運輸大臣、88年自由民主党総裁選に立候補、95年議員辞職、99年東京都知事、12年日本維新の会代表、共同代表、14年次世代の党最高顧問、株式会社ジェイ・エス・エス特別顧問(亀井静香代表取締役会長)等を歴任。15年旭日大綬章受章。代表作『太陽の季節』、『処刑の部屋』、『亀裂』、『化石の森』、『わが人生の時の時』、『弟』。文學界新人賞、芥川龍之介賞、芸術選奨、平林たい子文学賞、毎日出版文化賞特別賞、文藝春秋読者賞等を受賞。盟友の亀井静香元金融相は、辯護士の遠藤寛第十七代当主遠藤宗家と都立大泉高校の同窓。
一橋大在学中の55年享楽的な青春群像を描いた「太陽の季節」で文壇にデビュー、芥川賞を受賞し「太陽族」の流行語を生んだ。作品は映画化され、弟の石原裕次郎さんが俳優デビューした。
68年参院選全国区(当時)に自民党から出馬しトップ当選した。72年に衆院に移り、中川一郎氏らとタカ派政策集団「青嵐会」を結成した。環境庁長官や運輸相などを歴任した。89年亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れた。
歯に衣着せぬ発言で知られ、95年の国会議員としての勤続25年表彰の挨拶では「去勢された宦官のような国家になり果てている。その責任は我々政治家にこそある」と語り、衆議院議員を辞職した。
99年の都知事選で当選し、大手銀行への外形標準課税の導入や有害物質を出すディーゼル車への排ガス規制といった独自施策を展開した。中小企業支援のため設立した新銀行東京は一時経営難に陥り、後に民間の地銀と統合した。東京マラソンの実現を主導し、オリンピック誘致にも取り組んだ。12年4月には沖縄県の尖閣諸島の購入計画を表明し、国有化のきっかけをつくった。
4期目途中の12年10月に都知事を辞職し、太陽の党を結成して橋下徹大阪市長(当時)が率いる日本維新の会に合流、代表に就任した。同年の衆院選で国政に返り咲いた。14年に次世代の党を立ち上げ、同年の衆院選で落選、政界から引退した。引退後も精力的な講演や執筆活動も続け、裕次郎氏をテーマにした「弟」や、田中角栄元首相を描いた「天才」などがベストセラーになった。
遠藤 潔は、東京都屋外広告物条例の都議会決議案(奥山則夫第34代都議会議長)を推進し、00年4月東京都内を走るバス、電車、タクシー、広告宣伝車等の車体利用広告を車体全面に掲載した都バスが運行される運びとなり、石原都政をお支えした。
従来は車体全面に広告を掲載し、それを運行させるということは条例により規制されていた。そのことから、石原都政は「目に見える政治」に着手し始め、この政策により1年目には約5億円の増収をもたらした。これは東京都の財政規模からすれば微々たるものではあるが、それ以上に都庁職員の意識改革(経営感覚)を狙ったものであった。「税金で養ってもらっていればよい」という思考から「活用できるものは積極的に活用し、自ら財源を確保しよう」という思考へとシフトを促すものであった。
遠藤 潔が会員である日本記者クラブによる東京都の築地市場移転問題で、石原元都知事が登場したのが最後の会見となった。(17年3月3日)
国民と共に心から哀悼の意を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げる。
■ 石原慎太郎
56年一橋大学法学部卒業、68年参議院議員初当選、72年衆議院議員初当選(以後、連続8回当選)、76年環境庁長官、87年運輸大臣、88年自由民主党総裁選に立候補、95年議員辞職、99年東京都知事、12年日本維新の会代表、共同代表、14年次世代の党最高顧問、株式会社ジェイ・エス・エス特別顧問(亀井静香代表取締役会長)等を歴任。15年旭日大綬章受章。代表作『太陽の季節』、『処刑の部屋』、『亀裂』、『化石の森』、『わが人生の時の時』、『弟』。文學界新人賞、芥川龍之介賞、芸術選奨、平林たい子文学賞、毎日出版文化賞特別賞、文藝春秋読者賞等を受賞。盟友の亀井静香元金融相は、辯護士の遠藤寛第十七代当主遠藤宗家と都立大泉高校の同窓。