遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

遠藤宗家の由来

2016年07月28日
遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。

京の都(現在の京都市)から遠い湖(浜名湖)という意味で、遠淡海(とほつあはうみ)。それが転じて遠江(とおとうみ)。つまりは浜松市を中心とする静岡県西部エリアのこと。京の都から近い湖(琵琶湖)が近淡海(ちかつあはうみ)、転じて近江(おうみ)、つまりは今の滋賀県。

平安初期の天慶3年(940年)、征東大将軍藤原忠文(ふじわらのただぶみ)は、平将門討伐のため坂東に向かっていた。その途中、遠江国に至ったときに平将門の死を知らされている。忠文の孫の藤原為方は「遠藤六郎大夫・摂津守・惣官」となり、以後、藤原氏を出自とするこの遠藤氏は広く栄える。この系統が現在、多くの遠藤姓のルーツとなっている。別に工藤為憲の後裔・相良維兼が、遠江守に任ぜられ遠藤氏を名乗ったとする説もあるが、遠藤家の「遠」は遠州に通じる。

さらに、ここから分かれた摂津国(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の渡辺党の中心で活躍した遠藤氏が知られている。遠藤氏は渡辺氏よりも早く渡辺津(わたなべのつ=旧淀川の河口にあった瀬戸内海沿岸で最大級の港湾、現在の天神橋一帯)に居を構えていたという。この時期、渡辺津には渡辺氏と遠藤氏が拮抗するかたちで存在していたのである。藤原為方の後裔の遠藤頼方は平氏政権下では「和泉・紀伊・摂津三ケ国総追捕使」を任され、平家の家人として勢力を有し、次に現れる、伊豆の源頼朝に挙兵を促した文覚上人(もんがくしょうにん)により攝津国の遠藤氏はさらに力を強めていく。文覚上人とは袈裟御前との悲恋から出家した遠藤盛遠(えんどうもりとう)の後の姿である。

渡辺党・遠藤氏の流れ、文覚上人を祖とする遠藤盛継が、応永8年(1401年)、鎌倉公方より大崎平野の志田・玉造・加美三郡の奉行に任じられて陸奥国に下向、志田郡松山城(宮城県大崎市松山千石)を居城とした。松山城は千石城とも称され、伊達最北端の要衝を守る城として知られている。同じ東北には仙台・伊達家を支えた家臣団として知られる遠藤家もある。遠藤基信が伊達輝宗に認められ、その子・宗信も伊達政宗の信頼厚く宿老として伊達家に仕えた。仙台藩の遠藤氏は明治期には塩竈神社の宮司となっている。

一方、平家の流れを伝える桓武平氏千葉氏族東(とう)氏の遠藤氏もいる。
400年に渡って歌い踊り続けられてきた郡上(ぐじょう)踊りで有名な岐阜県郡上市八幡町の八幡山に郡上八幡城がある。八幡町のどこにいても山頂の城が良く見え、旧二の丸跡には「山内一豊と妻の像」が建っている。山内一豊の妻・千代は、弘治2年(1556年)、初代郡上八幡城主・遠藤盛数(えんどうもりかず)の娘として生まれている(浅井氏家臣の若宮友興の子という説もあり定かでない)。

遠藤盛数が郡上八幡城を築くまでは、郡上一円は東氏によって支配されていた。美濃国群上郡二万七千石の領主であった東常慶(とうつねよし)のとき、お家騒動の後、東氏は婿養子の遠藤盛数に滅ぼされる。そこで盛数は東氏の家督を継いだのだが、東氏を名乗らず遠藤を家号としたため、本来藤原氏を出自とする遠藤氏だが、東氏流の桓武平氏となったわけである。そして永禄2年(1559年)、遠藤盛数は八幡山の上に前出の郡上八幡城を築くのであった。郡上藩の当初の藩主が遠藤氏なのは織田信長や豊臣氏の家臣だったが、関ヶ原の戦いで東軍について旧領を安堵されたというわけなのだ。つまりは、郡上八幡城は、遠藤家の大切なルーツのひとつ。

ここで、近江国浅井家の勇将、遠藤直経(えんどうなおつね)の祖は、鎌倉時代に近江国坂田郡須川(滋賀県米原市須川)に所領を得て下向したとされ、代々須川山一帯を治めて須川城を居城とした。後、遠藤直経は姉川合戦の際、織田軍本陣に入って織田信長と刺し違えようとしたことで知られるが、また伊賀の忍者とも直経は関係があった。米原市須川の集落一帯が直経が築いたという須川城の城域。美濃と近江の国境防衛に役立った出城の須川山砦は須川山の山頂に位置する。須川城近くには遠藤家ゆかりの須川観音堂(滋賀県米原市須川221)も残されており、遠藤直径が必勝祈願をしたといわれる十一面観音立像が安置されている。長浜市垣籠町には遠藤塚がある。塚の脇には「姉川の合戦・遠藤直経の墓」と書かれた大きな案内板があるが、そこが遠藤直経終焉の地。この地の小字を「遠藤」といい、命日には地元の人の手で法要が執り行なわれているという。

また、新潟市北区葛塚の開市神社(かいちじんじゃ)も遠藤氏を祀っている。葛塚の庄屋だった遠藤家の七郎左衛門宗寿、七郎左衛門国忠、七郎昭忠の3人が祭神となっている。文久3年(1863年)8月に遠藤宗寿を祀ったのが始まりとされる。葛塚に市場を開きたいと運動を起こしたのが遠藤家で、今では「開市の神」として祀られている。開市神社拝殿は国の登録有形文化財。

遠藤姓は福島県で大姓5位、山形10位、宮城13位、鳥取14位など、北関東から東北にかけて多い。千葉や徳島でも多く見かける。代表家紋は、千葉氏族や郡上八幡城の遠藤氏が亀甲に花角。他に千葉氏族は九曜、月に星。藤原姓は下り藤、五三桐、沢瀉。三つ星、十曜なども見られる。



■ 遠藤宗家
遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本家)は、桓武平氏の由緒を引き継ぎながら甲賀組百人武士として特殊任務を賜る。徳川家康公が天正十八年(1590年)に江戸に入府し、慶長八年(1603年)に同地に幕府をひらき、爾後260年余、徳川将軍家 直参御目見得として日本の統治及び警備を行う。その後、明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、現在、十七代当主遠藤寛(弁護士)、第十八遠藤潔(遠藤宗家事務局長・遠藤総研社長)に至る。
家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。