遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

佐野源左衛門常世

2022年06月01日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の親戚である佐野鼎加賀金沢藩士は、開成学園の前身の共立学校を創立した。1895年(明治28年)共立学校が開成学園と改名されてから、2021年学校創立150周年という節目の年を迎えた。

佐野鼎加賀金沢藩士の先祖である佐野源左衛門常世(さののげんざえもんのじょうつねよ)は、能の演目『鉢の木』によって描かれ、武士の心得「いざ鎌倉」という言葉が、後世に伝えられた。そのモデルとなった武士が、佐野源左衛門常世である。

『鉢の木』は、鎌倉幕府第五代執権だった北条時頼が康元元年(1256年)に病でたおれ、出家して西明寺入道となり、自らの地位を隠し旅僧として諸国行脚したことが記されている『太平記』や『増鏡』を元にしたものだとされる。能の演目『鉢の木』によって描かれ、後世に伝えられた。そのモデルとなった武士が佐野源左衛門常世である。能『鉢木』の作者は、観阿弥・世阿弥ともいわれるが定かではない。

鎌倉時代中期。大雪が降る中、鎌倉を目指す一人の旅僧が、上野国(こうずけのくに)佐野を訪れた。旅僧は雪のため先に進むことができず、道中にあった家を尋ね、主人の妻に宿泊を請うた。やがて帰宅した主人の佐野源左衛門尉常世はその頼みを聞くも、貧苦のために宿を貸すことはできないと一度は断った。しかしその後、妻の助言もあり、去った旅僧を追いかけ、一晩家に泊めることにした。

寒さが厳しくなってきたため、常世は大切にしていた梅と桜と松の三本の鉢の木を火にくべて、旅僧をもてなした。旅僧が常世に名前を尋ねると、名乗るほどの者ではないとしつつも、やがて旅僧に名を告げ、さらには親族に領地を横領されたために零落した身を述べた。それでも鎌倉で事変などあれば誰よりも先に駆けつけるつもりであることを旅僧に語った。翌朝、お互いは名残を惜しみながらも、旅僧は常世のもとを後にした。

それから日のたったある日、鎌倉の北条時頼は関東八州の武士に召集をかけた。召集を聞きつけた常世は、みすぼらしい出で立ちながら、鎌倉へと駆けつけた。一方、時頼は部下の二階堂に、ちぎれた甲冑を着て、錆びた薙刀を持ち、痩せた馬を連れている武士を探し出して、自分の前に参上させるように申しつけます。二階堂はさらに従者に言いつけて、そのみすぼらしい武士、すなわち常世を見つけ出した。

常世が参上すると、以前、家に泊めた旅僧が実は、時頼であったことに気が付く。今回の召集は、時頼が常世の言葉に偽りがないかを確かめるためのものであった。時頼は実際に鎌倉にやってきた常世を称賛して横領された土地の回復を約束し、三本の鉢の木のお礼に、梅、桜、松にちなんだ三ヶ所の庄を与えた。常世は、喜んで上野国へと帰国した。

『鉢木』は徳川家康公も好んだとされている名曲で、江戸時代以降に人気を得た四番目物である。武士道を賛美する主題や、身分の高い者がその身分を隠して諸国を行脚するというストーリーも人気となった。

シテの常世は英雄や武将ではなく、一人の平凡な武士である。しかし、雪を見ながら『和漢朗詠集』にある白楽天の詩に思いを馳せ、旅僧との出会いを『新古今和歌集』の藤原定家の歌に喩え、さらには粟飯を炊く場面では唐代の小説『枕中記』の故事を引き比べたりと、古典の素養を持ちつつ風情を解する人物として描かれている。常世の登場時の第一声「ああ降ったる雪かな」は能全体の出来を左右するほどの重要な一句であり、雪景色を表現しながらも、品格を保ち続けている常世の在り方を象徴している場面である。

苦しい生活でありながらも鉢の木を育てていた常世が、作り物の大きさからも推し量れるように、当時の鉢の木は大型であり、常世が年月をかけて大切に育てていたことがわかる。こうした鉢の木を火にくべる様子からは、常世の義侠心が伝わってくる。一方で、『いざ鎌倉』の語源とも言われるように、鎌倉の一大事には、他人から笑われるような格好でも一番に鎌倉に馳せ参じる心意気のある人物でもある。質実剛健な気質を持った人物として常世は描かれている。

一方でワキの北条時頼は、鎌倉幕府の五代執権で、出家後は最明寺殿とも呼ばれていた。庶民のための政治を行った人物として知られ、変装して諸国を回ったという伝説が生まれ、史実であるかは別として「太平記」などにその姿が描かれている。こうした伝説が『鉢木』の題材となっている。旅僧としての慎ましやかな謙虚さと、最高権力者としての格調高い貫禄、この両面を持った人物として作中では描かれている。

※画像:「教導立志基」より『佐野常世』水野年方筆


【 通 称 】  (諱)常世(つねよ)
【 官 位 】  従五位上長門守/左衛門尉
【 生 年 】  不詳/鎌倉中期(1250年頃)
【 没 年 】  不詳
【 時 代 】  鎌倉時代中期下野国佐野庄領主
【 氏 族 】  藤姓足利流佐野氏
【 所 領 】  下野国佐野荘
【 墓 所 】  佐野市嘉多山町/願成寺
【 墓 石 】  宝篋印塔 佐野市指定文化財(考古資料)指定日(昭和37年)
【 由 縁 】  栃木県佐野市/群馬県高崎市/松井田町
【 寺 号 】  願成寺
【 所在地 】  栃木県佐野市鉢木町
【 創建年 】  宝亀年間(770年~781年)
【 開 山 】  大僧都智開法印
【 開 基 】  中興開基:藤原秀郷
【 山 号 】  梅秀山
【 宗 派 】  臨済宗建長寺派  
【 本 尊 】  阿弥陀如来



■ 佐野鼎
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父であり大正天皇侍従の遠藤榮第十五代当主の妹君子の夫である佐野清宝石販売佐野商店社長の親戚。天保2年(1831年)駿河国富士郡生まれ、明治10年(1877年)10月24日コレラに罹り47歳急逝。通称は貞助(輔)。江戸に出てオランダ式砲術家下曽根金三郎塾に入り19歳で塾頭。のち長崎の海軍伝習所に学び、安政元年(1854年)加賀藩に洋式兵学校壮猶館が設立されたとき西洋砲術師範方棟取役。安政7年(万延元年1860年)幕府遣米使節に随行「奉使米行航海日記」を著し、文久元年(1861年)の遣欧使節にも加わり明治4年(1871年)廃藩置県後、金沢藩の洋学・砲術・海洋学の講師から兵部省の造兵司正(頭)。