遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

中島久萬吉 男爵

2022年08月15日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の菩提寺である浄土宗寺院の寂照山唯心院高徳寺(山號及別號寂光山唯心院 京都知恩院末)は、晃誉上人居的和尚が元和九年(1623年)に開山した。江戸時代には淳澄、源流、隆察など増上寺学寮出身の僧侶が晋山している。

江戸幕府に入府した德川家康公の命により、甲賀組の遠藤宗家が開基家として、天正七年(1579年)赤坂青山北町(現在の北青山)に建立した。その際、甲賀組が信仰の対象としていた浄土宗寺院を近江国の甲賀郡から、江戸に移転した。そのことから、遠藤宗家第十五代当主 遠藤榮(大正天皇侍従)等が、檀家総代を務めた。

遠藤宗家が属していた甲賀百人組は、德川家康公が江戸城に入府してから青山百人町にあった青山甲賀屋敷(現在の表参道駅にある善光寺周辺に位置する)、千駄ヶ谷甲賀屋敷(現在の千駄ヶ谷にある国立競技場)、青山権田原の鉄砲演習場を幕府から拝領した。

高徳寺の矢田圓應和尚住職と親交があったと思われる中島久萬吉男爵は、高徳寺書院から眺める中庭園に陶器製の鶴を寄贈した。高徳寺は、都内のみならず都下においても有名な建築物で、参拝者や高徳寺心の会会員が途絶えることがなかった。

中島久萬吉男爵の父である中島信行は、土佐藩を脱藩した尊王の志士であり、坂本龍馬の海援隊若手三羽烏の一人。後に自由党結成にあたって副総裁、初代衆議院議長、駐イタリア特命全権公使等を務めた。その勲功により男爵となる。そのため、長男の久萬吉も男爵を襲爵する。北青山に約1200坪の本邸を構え、隣に陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)等を歴任した田中義一本邸、向かいに東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任した川村景明邸があった。

男爵の中島久萬吉本邸と同じく北青山にある高徳寺の三千余坪ある境内は、本堂の瓦葺屋棟に金色の德川将軍家葵章を附する。本尊は、阿弥陀如来(行基菩薩作)。左右は、観音勢至。山之手六阿彌陀の第三番の札所や満願稲荷社、寿延観音堂、子安観音堂、鐘楼(梵鐘の銘宝永元年)などは、德川幕府の全面的な援助で造営された。

遠藤 潔 第十八代遠藤宗家は、三井宗家との由縁により三井物産、三井物産グループに在職し、人の三井・自由闊達の精神「三井のこころ」である事業精神や先見性、創造性を学んだ。遠藤家と三井家の系譜は古く、家伝によると平安時代の藤原氏から起こったとされる。

慶応四年(1868年)德川宗家の德川家達第十六代当主は、新政府から駿河静岡藩主(知藩事)として認められ、70万石の領主として駿河・遠江に入ることとなった。德川将軍家直参御見目得旗本であった遠藤・益田両家は後に、遠藤宗家の遠藤榮第十五代当主は、大正天皇侍従、益田孝三井物産初代社長は、実業家に転身することになった。

中島久萬吉男爵と三井との関わりは深く、明治三十二年(1899年)三井物産入社後に益田孝秘書役に就任、大正九年(1920年)古河電気工業、横浜護謨工業、富士電機等の古河コンツェルンを創立、古河電気工業社長に就任した。後の昭和四十九年(1974年)三井物産と古河電気興業と共同でブラジルにフルカワ・インドゥストリアルS.A.プロドゥトス・エレトリコス(FISA)を設立。シンガポールに高圧送電線敷設の工事合併会社アジア・ケーブル・エンジニアリング(ACECO)社を設立した。

※画像:東都青山絵図(出版:安政四年、金鱗堂尾張屋清七)


■ 中島久萬吉 
99年三井物産入社(益田孝秘書役)、男爵受爵、01年第1次桂内閣内閣総理大臣秘書官、04年貴族院男爵議員、06年第1次西園寺内閣内閣総理大臣秘書官、11年横濱電線製造社長、17年横濱電線製造会長、橫濱護謨製造会長、古河合名理事、日本工業倶楽部設立、同専務理事、19年貴族院議員、日本運送社長、20年古河電気工業、横浜護謨工業、富士電機等の古河コンツェルンを創立、古河電気工業社長、23年国際運送会長、26年(大正15年) 国際運送会長、合同運送社長、27年池上電気鉄道社長、32年商工大臣(斎藤実内閣)、40年東京地下鉄道社長、47年日本貿易会会長、52年明治天皇御生誕百年記念国民大会委員長、53年国際電信電話会長、明治学院大学名誉学長、日本外政学会会長、55年文化放送会長、60年葉山町の自宅にて老衰のため死去(88歳)。勲一等旭日大綬章。八千子夫人は、岩倉具視の孫の子爵岩倉具明の妹。