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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
德川宗家 家督継承
2022年10月25日
德川宗家の德川恒孝第十八代当主(82)は高齢を理由に引退し、来年1月1日付で、長男で德川記念財団理事長の德川家広第十九代(57)が家督継承する。德川恒孝第十八代当主が家督を継承したのは1963年で、60年ぶりの交代となる。
11月から寛永寺(東京都台東区)など、德川家ゆかりの6カ所を回って代替わりを報告する。来年1月29日に増上寺(東京都港区)で「継宗の儀」を行う。当主は德川家康公命日の4月17日に墓所の久能山東照宮(静岡市)、5月17日に日光東照宮(栃木県日光市)である祭事に衣冠束帯で臨む。毎月のように行われる歴代将軍やその正室らの法要も営むほか、世界お茶まつりや德川家臣団大会にも出席する。
德川宗家は德川慶喜第十五代将軍の隠居に伴い、御三卿の一つである田安家の德川家達第十六代当主が継承した。德川宗家の徳川恒孝第十八代当主は、会津松平家から母方の祖父にあたる德川家正第十七代当主の養子に入り、1963年先代の死去に伴い第十八代当主となった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家が所属する德川宗家とゆかりのある柳営会は、德川将軍家譜代の大名、旗本並びに御家人(大概順「御目見得以下」記載の者など德川幕府から禄をいただいていた者)等の幕臣の子孫を原則として会員資格者とする。なお明治以降分家した子孫も含めるものとする。柳営とは、名将軍の陣営を呼称する中国の故事に由来し、江戸時代には「幕府及び将軍」を意味する固有名詞として知られていることから、会の名称として採用された。
【 德川宗家略系図 】
德川家康 (江戸幕府 初代征夷大将軍)
↓
德川頼房 (水戸藩初代藩主 / 水戸德川家)
↓
松平頼重 (高松藩初代藩主 / 高松松平家)
↓
松平頼侯(松平頼章)
↓
松平頼豊 (高松藩第三代藩主 / 高松松平家)
↓
德川宗尭 (水戸藩第四代藩主 / 水戸德川家)
↓
德川宗翰 (水戸藩第五代藩主 / 水戸德川家)
↓
德川治保 (水戸藩第六代藩主 / 水戸德川家)
↓
松平義和 (高須藩第九代藩主 / 高須松平家)
↓
松平義建 (高須藩第十代藩主 / 高須松平家)
↓
松平容保 (会津藩第九代藩主 / 会津松平家)
↓
松平恆雄
↓
松平一郎
↓
德川恒孝 (德川宗家第十八代当主)
↓
德川家広
※德川宗家(德川将軍家)の継承は、同族からの養子を含む。
■ 德川宗家
德川家康公を始祖とする德川宗家(将軍家)は、初代德川家康公が天正18年(西暦1590年)に江戸に入府し、慶長8年(1603年)に同地に幕府をひらき、爾後260年余、第十五代に亘り征夷大将軍として日本の統治をした。その後、明治元年(1868年)に田安德川家より第十六代として德川家達公が入り、同17年(1884年)華族令の制定により公爵家となり、第十七代德川家正公を経、德川恒孝第十八代当主に至る。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
11月から寛永寺(東京都台東区)など、德川家ゆかりの6カ所を回って代替わりを報告する。来年1月29日に増上寺(東京都港区)で「継宗の儀」を行う。当主は德川家康公命日の4月17日に墓所の久能山東照宮(静岡市)、5月17日に日光東照宮(栃木県日光市)である祭事に衣冠束帯で臨む。毎月のように行われる歴代将軍やその正室らの法要も営むほか、世界お茶まつりや德川家臣団大会にも出席する。
德川宗家は德川慶喜第十五代将軍の隠居に伴い、御三卿の一つである田安家の德川家達第十六代当主が継承した。德川宗家の徳川恒孝第十八代当主は、会津松平家から母方の祖父にあたる德川家正第十七代当主の養子に入り、1963年先代の死去に伴い第十八代当主となった。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家が所属する德川宗家とゆかりのある柳営会は、德川将軍家譜代の大名、旗本並びに御家人(大概順「御目見得以下」記載の者など德川幕府から禄をいただいていた者)等の幕臣の子孫を原則として会員資格者とする。なお明治以降分家した子孫も含めるものとする。柳営とは、名将軍の陣営を呼称する中国の故事に由来し、江戸時代には「幕府及び将軍」を意味する固有名詞として知られていることから、会の名称として採用された。
【 德川宗家略系図 】
德川家康 (江戸幕府 初代征夷大将軍)
↓
德川頼房 (水戸藩初代藩主 / 水戸德川家)
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松平頼重 (高松藩初代藩主 / 高松松平家)
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松平頼侯(松平頼章)
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松平頼豊 (高松藩第三代藩主 / 高松松平家)
↓
德川宗尭 (水戸藩第四代藩主 / 水戸德川家)
↓
德川宗翰 (水戸藩第五代藩主 / 水戸德川家)
↓
德川治保 (水戸藩第六代藩主 / 水戸德川家)
↓
松平義和 (高須藩第九代藩主 / 高須松平家)
↓
松平義建 (高須藩第十代藩主 / 高須松平家)
↓
松平容保 (会津藩第九代藩主 / 会津松平家)
↓
松平恆雄
↓
松平一郎
↓
德川恒孝 (德川宗家第十八代当主)
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德川家広
※德川宗家(德川将軍家)の継承は、同族からの養子を含む。
■ 德川宗家
德川家康公を始祖とする德川宗家(将軍家)は、初代德川家康公が天正18年(西暦1590年)に江戸に入府し、慶長8年(1603年)に同地に幕府をひらき、爾後260年余、第十五代に亘り征夷大将軍として日本の統治をした。その後、明治元年(1868年)に田安德川家より第十六代として德川家達公が入り、同17年(1884年)華族令の制定により公爵家となり、第十七代德川家正公を経、德川恒孝第十八代当主に至る。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。