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遠藤潔の活動報告
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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
德川宗家 継承の儀
2023年01月29日
今月1月1日 德川宗家の德川恒孝第十八代当主から家督を継いだ德川記念財団理事長の德川家広第十九代は、東京都港区の増上寺で「継宗の儀」を執り行った。
德川宗家の当主が替わるのは60年ぶりで、祝儀として行われるのは、江戸時代の第十一代代将軍家斉公から第十二代家慶公の生前交代以来、185年ぶりとなる。德川宗家は初代家康公から第十五代慶喜公まで江戸幕府将軍を務め、明治時代以降の第十六代家達公、第十七代家正公は公爵となり、貴族院議長などを歴任した。
非公開で行われた儀式には、德川家・松平家の一門や柳営会、自治体の首長などの関係者400人以上が出席した。読経や継宗に伴う挨拶のほか、香を献上する「献香」など1時間にわたり儀式が行われた。式の後では「江戸消防記念会」による特別演舞も奉納された。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家が所属する德川宗家とゆかりのある柳営会は、德川将軍家譜代の大名、旗本並びに御家人(大概順「御目見得以下」記載の者など德川幕府から禄をいただいていた者)等の幕臣の子孫を原則として会員資格者とする。なお明治以降分家した子孫も含めるものとする。柳営とは、名将軍の陣営を呼称する中国の故事に由来し、江戸時代には「幕府及び将軍」を意味する固有名詞として知られていることから、会の名称として採用された。
遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
■ 德川家広
65年2月7日生、東京都出身の57歳。慶大卒業後、米の大学院で経済学修士号を取得。財団法人国際開発高等教育機構(FASID)などに勤務し、政治経済評論家や翻訳家としても活躍。21年6月「徳川記念財団」理事長を継承。長崎大学国際連携研究戦略本部客員教授、特定非営利活動法人公共政策調査機構顧問などを歴任。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
德川宗家の当主が替わるのは60年ぶりで、祝儀として行われるのは、江戸時代の第十一代代将軍家斉公から第十二代家慶公の生前交代以来、185年ぶりとなる。德川宗家は初代家康公から第十五代慶喜公まで江戸幕府将軍を務め、明治時代以降の第十六代家達公、第十七代家正公は公爵となり、貴族院議長などを歴任した。
非公開で行われた儀式には、德川家・松平家の一門や柳営会、自治体の首長などの関係者400人以上が出席した。読経や継宗に伴う挨拶のほか、香を献上する「献香」など1時間にわたり儀式が行われた。式の後では「江戸消防記念会」による特別演舞も奉納された。
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家が所属する德川宗家とゆかりのある柳営会は、德川将軍家譜代の大名、旗本並びに御家人(大概順「御目見得以下」記載の者など德川幕府から禄をいただいていた者)等の幕臣の子孫を原則として会員資格者とする。なお明治以降分家した子孫も含めるものとする。柳営とは、名将軍の陣営を呼称する中国の故事に由来し、江戸時代には「幕府及び将軍」を意味する固有名詞として知られていることから、会の名称として採用された。
遠藤宗家の先祖である甲賀武士「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)であった。
4名の組頭の下に鉄砲与力20騎(または25騎)と同心100名が配置されていたことから、百人組と称された。組頭は概ね3,000石、役料700俵が与えられ、幕府の中でも特に重職とされた。甲賀組の始まりは、関ヶ原の戦いで活躍した山岡景友が伏見城の戦いで戦死した甲賀衆の子弟から、与力10騎と同心100名を配下にしたとされる。
甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、德川将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)や日光東照宮の参詣の際には山門前警固を行った。
■ 德川家広
65年2月7日生、東京都出身の57歳。慶大卒業後、米の大学院で経済学修士号を取得。財団法人国際開発高等教育機構(FASID)などに勤務し、政治経済評論家や翻訳家としても活躍。21年6月「徳川記念財団」理事長を継承。長崎大学国際連携研究戦略本部客員教授、特定非営利活動法人公共政策調査機構顧問などを歴任。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。德川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治17年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(大正天皇 宮内庁 東宮侍従)を経、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。