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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
千駄ヶ谷 德川宗家本邸
2023年07月02日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の先祖である甲賀武士が所属した「鉄砲百人組」は、德川将軍家の親衛隊の一つで、若年寄支配下(設立当初は老中支配、寛政の改革後に若年寄支配)にあった。甲賀武士である遠藤宗家は、江戸幕府成立後に近江国甲賀郡から青山百人町甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷)に移住、権田原に鉄砲場を拝領し、大手三門の警備を担当した。
「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
第十三代将軍家定公の正室である天璋院は、千駄ヶ谷を終の住み処にした。その後、1877年(明治10年)千駄ヶ谷に完成した德川宗家の屋敷で家達公と共に暮らした。紀州德川家の下屋敷跡であり、現在のJR信濃町駅南側一帯に10万坪余りの広大な邸宅地があった。
渋谷川の上流一帯は、1644年(正保1年)に「千駄萓村」と明記され、萓が多く自生した水辺であった。「千駄」は、馬に積む荷物(萓)が多いいことを意味している。「千駄ヶ谷」の字が当てられたのは、1688年(元禄元年)以降である。
JR新宿駅南口から甲州街道沿いを西に進むと、西新宿1丁目の交差点に至る。この付近は、大正時代の半ばの十年間、京王線「葵橋駅」があった。葵橋とは、玉川上水にかかっていた橋であり、JR東京総合病院(旧鉄道病院)あたりに紀州德川家屋敷があったことに由来する。
德川宗家本邸である新邸は北はJR千駄ヶ谷駅、南はJR原宿駅、西は明治通り、東は東京体育館で囲い込んだ広大な屋敷であった。天璋院が暮らした旧邸は、津田塾大学の背後にあった。新邸と旧邸は、千駄ヶ谷駅前から甲賀稲荷神社に向かう東西に位置していた。
甲賀稲荷神社は、1885年(明治18年)青山練兵場(現在の外苑)設置のために鳩森八幡神社に遷座、合祀されることになる。昭和初期に神主であった矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、1938年(昭和13年)5月に当社の神前に安置した随身像二軀の内、向かって左方の神像を修復した時、その胎内より次の『御修覆記』並びに『奉納、甲賀組百人姓名書』が発見された。この修覆記と共に発見された甲賀百人衆の姓名が連書されており、その中に「御納戸同心 遠藤左太夫」とあるのは、遠藤宗家第十三代当主である。御納戸同心とは、德川将軍家の金銀、衣類、調度品などを管理する職務。
旧千駄ヶ谷五丁目千二番地〈1879年(明治12年):東京府豊島郡千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷字甲賀町〉に居住していた遠藤榮 遠藤宗家第十五代当主(宮内庁 大正天皇侍従)は、至誠をもって二十数年間、神社に奉仕された人格者であると矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』及び『千駄ヶ谷の歴史』に記述されている。
また、甲賀組の百人衆が鳩森八幡神社を崇敬した記録は、月山和尚の『年中行事』手記に「八幡宮 御供米 甲賀百人組より、御供米は永代二月、白米五斗、五月五斗、十月五斗に、金三百疋奉納の節、諸役掛りの者、古は六人位、今は拾人乃至拾弐人位来る。餐応。」として、精進料理の膳立てが克明に書かれている。その他、瑞円寺の古文書によると、奉納覚え書と、同じく返納書の二通がある。
【 德川公爵邸 】
宗家本邸:東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:渋谷区千駄ヶ谷)10万坪
本邸設計:曾禰中條建築事務所(曽祢中条)
本邸施工:石井組
本邸工期:大正15年8月−昭和3年5月
■ 德川家達
文久3年7月11日-昭和15年6月5日。従一位大勲位公爵。幼名は亀之助。号は静岳。元治2年御三卿田安徳川家第七代当主、慶応4年徳川宗家第十六代当主、明治初期静岡藩主(知藩事)。明治36年第四代~第八代貴族院議長。ワシントン軍縮会議全権大使、東京オリンピック組織委員会委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長などを歴任。
「鉄砲百人組」の職務は、平時は江戸城大手三之門の番所(現存の「百人番所」)に詰め、各組交替で三之門の警衛を行っており、将軍が将軍家両山(上野寛永寺、芝増上寺)、日光東照宮等の参詣や鷹狩りの際、警護を担うことにあった。
第十三代将軍家定公の正室である天璋院は、千駄ヶ谷を終の住み処にした。その後、1877年(明治10年)千駄ヶ谷に完成した德川宗家の屋敷で家達公と共に暮らした。紀州德川家の下屋敷跡であり、現在のJR信濃町駅南側一帯に10万坪余りの広大な邸宅地があった。
渋谷川の上流一帯は、1644年(正保1年)に「千駄萓村」と明記され、萓が多く自生した水辺であった。「千駄」は、馬に積む荷物(萓)が多いいことを意味している。「千駄ヶ谷」の字が当てられたのは、1688年(元禄元年)以降である。
JR新宿駅南口から甲州街道沿いを西に進むと、西新宿1丁目の交差点に至る。この付近は、大正時代の半ばの十年間、京王線「葵橋駅」があった。葵橋とは、玉川上水にかかっていた橋であり、JR東京総合病院(旧鉄道病院)あたりに紀州德川家屋敷があったことに由来する。
德川宗家本邸である新邸は北はJR千駄ヶ谷駅、南はJR原宿駅、西は明治通り、東は東京体育館で囲い込んだ広大な屋敷であった。天璋院が暮らした旧邸は、津田塾大学の背後にあった。新邸と旧邸は、千駄ヶ谷駅前から甲賀稲荷神社に向かう東西に位置していた。
甲賀稲荷神社は、1885年(明治18年)青山練兵場(現在の外苑)設置のために鳩森八幡神社に遷座、合祀されることになる。昭和初期に神主であった矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、1938年(昭和13年)5月に当社の神前に安置した随身像二軀の内、向かって左方の神像を修復した時、その胎内より次の『御修覆記』並びに『奉納、甲賀組百人姓名書』が発見された。この修覆記と共に発見された甲賀百人衆の姓名が連書されており、その中に「御納戸同心 遠藤左太夫」とあるのは、遠藤宗家第十三代当主である。御納戸同心とは、德川将軍家の金銀、衣類、調度品などを管理する職務。
旧千駄ヶ谷五丁目千二番地〈1879年(明治12年):東京府豊島郡千駄ヶ谷村大字千駄ヶ谷字甲賀町〉に居住していた遠藤榮 遠藤宗家第十五代当主(宮内庁 大正天皇侍従)は、至誠をもって二十数年間、神社に奉仕された人格者であると矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』及び『千駄ヶ谷の歴史』に記述されている。
また、甲賀組の百人衆が鳩森八幡神社を崇敬した記録は、月山和尚の『年中行事』手記に「八幡宮 御供米 甲賀百人組より、御供米は永代二月、白米五斗、五月五斗、十月五斗に、金三百疋奉納の節、諸役掛りの者、古は六人位、今は拾人乃至拾弐人位来る。餐応。」として、精進料理の膳立てが克明に書かれている。その他、瑞円寺の古文書によると、奉納覚え書と、同じく返納書の二通がある。
【 德川公爵邸 】
宗家本邸:東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:渋谷区千駄ヶ谷)10万坪
本邸設計:曾禰中條建築事務所(曽祢中条)
本邸施工:石井組
本邸工期:大正15年8月−昭和3年5月
■ 德川家達
文久3年7月11日-昭和15年6月5日。従一位大勲位公爵。幼名は亀之助。号は静岳。元治2年御三卿田安徳川家第七代当主、慶応4年徳川宗家第十六代当主、明治初期静岡藩主(知藩事)。明治36年第四代~第八代貴族院議長。ワシントン軍縮会議全権大使、東京オリンピック組織委員会委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長などを歴任。