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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
大正天皇の御慶事
2023年07月02日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である遠藤榮 第十五代当主遠藤宗家は、大正天皇の侍従職。曽祖母である栗原セイは、大正天皇の貞明皇后女官職として側近奉仕に従事した。大正天皇の皇室御慶事に両名は、関わったと思われる。
慶応3年に明治天皇が践祚し、同年12月には王政復古の大号令が発せられた。これは、平安時代からの摂関制と、鎌倉時代以来の武家政治の終わりを告げるものでもあった。欧米列強と肩を並べるために、天皇を中心とした近代国家の形成は急務であり、天皇および皇族の新たな役割が模索される。それは、主に儀礼をつかさどる存在であった近世の朝廷とは大きく異なるものであった。
皇室の御慶事は、美術工芸品の表現もそのひとつで、御慶事に相応しい意匠が選ばれ、華やかで美しい作品が多いことが特色である。大正時代の15年間に、大正4年の大礼、同5年の立太子礼、同8年の皇太子(昭和天皇)成年式、同13年の皇太子御結婚、同14年の大正天皇銀婚式の他、同11年の雍仁親王の成年式と秩父宮創立等の御慶事が相次いだ。
これらの際には、明治期に行われ始めていた様々な奉祝の在り方が次第に整って盛大に行われるようになっており、祝意をこめた様々な美術工芸品の制作されて、最も献上された時期でもあった。
また、明治期以降、海外との交流を重ねつつあった皇室は、大正10年の皇太子御外遊等によって、皇室の存在が各国においても強く意識されるようになり、海外からお祝いの品が増えるのも大正期である。御慶事の度に、海外諸国の例も参考としながら盛大な儀式、祭典が開催され、内外に対して広く近代皇室の姿が公開された。
※画像:双鶴置物形ボンボニエール
■ 大正天皇
明治12年8月31日-大正15年12月25日。日本の第123代天皇(在位: 明治45年/大正元年7月30日-大正15年12月25日)。諱は嘉仁、御称号は明宮。お印は壽。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
慶応3年に明治天皇が践祚し、同年12月には王政復古の大号令が発せられた。これは、平安時代からの摂関制と、鎌倉時代以来の武家政治の終わりを告げるものでもあった。欧米列強と肩を並べるために、天皇を中心とした近代国家の形成は急務であり、天皇および皇族の新たな役割が模索される。それは、主に儀礼をつかさどる存在であった近世の朝廷とは大きく異なるものであった。
皇室の御慶事は、美術工芸品の表現もそのひとつで、御慶事に相応しい意匠が選ばれ、華やかで美しい作品が多いことが特色である。大正時代の15年間に、大正4年の大礼、同5年の立太子礼、同8年の皇太子(昭和天皇)成年式、同13年の皇太子御結婚、同14年の大正天皇銀婚式の他、同11年の雍仁親王の成年式と秩父宮創立等の御慶事が相次いだ。
これらの際には、明治期に行われ始めていた様々な奉祝の在り方が次第に整って盛大に行われるようになっており、祝意をこめた様々な美術工芸品の制作されて、最も献上された時期でもあった。
また、明治期以降、海外との交流を重ねつつあった皇室は、大正10年の皇太子御外遊等によって、皇室の存在が各国においても強く意識されるようになり、海外からお祝いの品が増えるのも大正期である。御慶事の度に、海外諸国の例も参考としながら盛大な儀式、祭典が開催され、内外に対して広く近代皇室の姿が公開された。
※画像:双鶴置物形ボンボニエール
■ 大正天皇
明治12年8月31日-大正15年12月25日。日本の第123代天皇(在位: 明治45年/大正元年7月30日-大正15年12月25日)。諱は嘉仁、御称号は明宮。お印は壽。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。