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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
平河天満宮
2023年07月16日
江戸城を築城した事で広く知られ、江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。
平河天満宮は、江戸平河城主太田道灌公によって川越の「三芳野天神(現三芳野神社)」より勧請され、城内の北坂梅林坂上に文明十年(1478年)江戸の守護神として創祀された。慶長十二年(1607年)徳川秀忠第二代将軍の命で当地に遷座した。
太田道灌公が菅原道真公(菅公)の夢を見た翌朝、菅原道真公直筆とされる書を贈られたため、これを霊夢として江戸城内に菅公を祀る「天神社」を創建したとされている。菅原道真公と飛梅の伝説から、当社の周囲に多くの梅の木を植えたため、当地周辺を梅林坂と呼ぶようになった。
菅原道真公は梅の木を愛でた事で知られ、政争に敗れて京から太宰府に左遷された際に歌を詠んでいる。「東風吹かば にほひをこせよ 梅花主なしとて 春を忘るな」。現代語訳「東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。」その梅が京から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」がよく知られている。
天正十八年(1590年)関東移封によって、徳川家康公が江戸入りする。江戸城を居城としたため、江戸城内にあった当社は江戸城の拡張工事を受け平川門外に遷座した。徳川秀忠第二代将軍の代になると、天下普請によって江戸城の拡張や大改造が行われる。
慶長十二年(1607年)天下普請の影響を受け、社地を江戸城外の貝塚と呼ばれていた現在地に遷座された。江戸城内にあったため庶民の参拝が許されていなかったが、城外に遷座した事で庶民の参拝もできるようにする意図もあったと思われる。
創建の地は江戸城の平川門内であったため「平川天神」と称された。また、当地周辺も「平河町」と呼ばれた。平河町は、当社の「平川天神(平河天神)」由来する。平河町は、町奉行所の管轄となり町家や武家屋敷が並び栄えた。以後、徳川将軍家を始め、紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の祈願所となる。新年の賀礼には宮司が将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
【 平河天満宮概要 】
社 号:平河天満宮
祭 神:菅原道真公
相 殿:誉田別命(八幡宮)、徳川家康公(東照宮)
境内社:平河稲荷神社、三殿宮(大鷲神社、塩神社、浅間神社)
住 所:東京都千代田区平河町1-7-5
■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である長女孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。三女里子は、遠藤武遠藤宗家第十六代当主夫人。太田道灌公は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
平河天満宮は、江戸平河城主太田道灌公によって川越の「三芳野天神(現三芳野神社)」より勧請され、城内の北坂梅林坂上に文明十年(1478年)江戸の守護神として創祀された。慶長十二年(1607年)徳川秀忠第二代将軍の命で当地に遷座した。
太田道灌公が菅原道真公(菅公)の夢を見た翌朝、菅原道真公直筆とされる書を贈られたため、これを霊夢として江戸城内に菅公を祀る「天神社」を創建したとされている。菅原道真公と飛梅の伝説から、当社の周囲に多くの梅の木を植えたため、当地周辺を梅林坂と呼ぶようになった。
菅原道真公は梅の木を愛でた事で知られ、政争に敗れて京から太宰府に左遷された際に歌を詠んでいる。「東風吹かば にほひをこせよ 梅花主なしとて 春を忘るな」。現代語訳「東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ。」その梅が京から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」がよく知られている。
天正十八年(1590年)関東移封によって、徳川家康公が江戸入りする。江戸城を居城としたため、江戸城内にあった当社は江戸城の拡張工事を受け平川門外に遷座した。徳川秀忠第二代将軍の代になると、天下普請によって江戸城の拡張や大改造が行われる。
慶長十二年(1607年)天下普請の影響を受け、社地を江戸城外の貝塚と呼ばれていた現在地に遷座された。江戸城内にあったため庶民の参拝が許されていなかったが、城外に遷座した事で庶民の参拝もできるようにする意図もあったと思われる。
創建の地は江戸城の平川門内であったため「平川天神」と称された。また、当地周辺も「平河町」と呼ばれた。平河町は、当社の「平川天神(平河天神)」由来する。平河町は、町奉行所の管轄となり町家や武家屋敷が並び栄えた。以後、徳川将軍家を始め、紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の祈願所となる。新年の賀礼には宮司が将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。
【 平河天満宮概要 】
社 号:平河天満宮
祭 神:菅原道真公
相 殿:誉田別命(八幡宮)、徳川家康公(東照宮)
境内社:平河稲荷神社、三殿宮(大鷲神社、塩神社、浅間神社)
住 所:東京都千代田区平河町1-7-5
■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である長女孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。三女里子は、遠藤武遠藤宗家第十六代当主夫人。太田道灌公は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。
■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。