遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

駒込妙義神社

2023年08月10日
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた太田道灌公は、遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の祖母方の縁戚であり、遠藤寛第十七代当主の従兄弟である太田資和氏の祖先で、室町時代の武将である。

およそ千三百年の歴史を持つ妙義神社は、駒込に鎮座している。祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。伝承によれば、日本武尊が東国にいた民族である蝦夷を討つために東征した際、この妙義神社がある場所に陣営を構え、白雉二年(651年)五月に社を建てて白鳥社と号した。これによれば、豊島区内では、最古の神社として伝えられている。

『新編武蔵風土起稿』によると、太田道灌公は、文明三年(1471年)五月 古河公方 足利成氏との戦に出陣する際、妙義神社に参詣し、神馬、宝剣を寄進し戦勝を祈願した。その際「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは、足利成氏を敗走させた。道灌公はこの戦に勝ち凱旋した際、当時の通貨である十五貫文を社領として寄進した。

その後、文明九年(1477年)、平塚城(東京都北区上中里)を拠点とし、関東管領上杉家に反旗を翻した豊島勘解由左衛門を討伐する際や(長尾景春の乱)、同十一年(1479年)、室町幕府に造反した千葉孝胤を攻める際にも道灌公は妙義神社に必勝祈願し、勝利を収めた。

当時、妙義神社境内には稲荷山という小高い山があり、道灌公は稲荷山に立ち豊島氏の平塚城を望みながら戦略を考えたと思われる。この様なことから「勝負の神様」「戦勝の宮」と呼ばれることとなり、人々より厚い信仰を集めた。   

かつて妙義神社には、道灌公の木像や道灌公が奉納した宝剣、古文書・古記録など様々な社宝があったが、大正十二年(1923年)九月に起きた関東大震災や昭和二十年(1945年)四月の空襲により、社殿・社務所とともに全て焼失した。妙義神社については、妙義坂乃神社縁起、白鳥社伝承、新編武蔵風土記稿に記述されている。

現在の妙義神社では、末社および道灌霊社に太田道灌公が祀られており、庚申塔は寛永十九年(1642年)十一月の造立で、豊島区有形文化財に指定された。

【 妙義神社の概要 】
社 号:妙義神社
祭 神:高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇
境内社:道灌霊社
住 所:東京都豊島区駒込3-16-16


■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。里子は、遠藤武遠藤宗家第十六代当主夫人。室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。