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遠藤 潔
遠藤潔の活動報告
遠藤榮 遠藤宗家第十五代当主兄妹
2023年08月17日
遠藤 潔 第十八代遠藤宗家の曽祖父である大正天皇侍従の遠藤榮遠藤宗家第十五代当主の妹アサは、遠藤宗家が所属した甲賀百人組が習得した春慶塗の縁により、越後村上藩主が藩士に奨励した村上木彫堆朱(むらかみきぼりついしゅ)で有名な新潟県村上市出身と思われる川村忠三郎村上家当主夫人となった。川村忠三郎川村家当主の長男である川上忠夫村上家当主は、武蔵野美術大講師として漆文化の普及活動に貢献した。
飛騨春慶の起源は、およそ四百年前の慶長年間(1596年~1615年)に、高山城下で社寺の造営に当たった名工高橋喜左衛門が、サワラの木目の美しさに心を打たれ、その木で蛤盆を作り、飛騨国高山藩の金森可重(ありしげ)第二代当主の長男である、金森重近(宗和流茶道の祖:金森宗和)に献上した。金森宗和は、御用塗師成田三右衛門に透き漆で塗り上げさせたところ、その色目が加藤景正の名陶「飛春慶の茶入」に似通っていたところから「春慶塗」と名付けられ、德川将軍家に献上されたと伝えられている。
甲賀百人組が習得した春慶塗は、漆塗の技法で製造された漆器である。主なものに、「日本三大春慶塗(日本三春慶)」と呼ばれる飛騨春慶(岐阜県高山市・飛騨市)、能代春慶(秋田県能代市)、粟野春慶(茨城県東茨城郡城里町)があり、その他伊勢春慶(三重県伊勢市)、木曽春慶(長野県木曽郡木曽町)などがある。
紅色または黄色で着色してできた木地の上に透明度の高い透漆を塗り上げ、表面の漆を通して木目の美しさが見えるようにしている。木目を見せるために下地等の補強をしない。そのため、木地の素材、扱い方に工夫を要する。素朴な技法をデザインで差異をつけることが追求され、木地や下地の色の選択、漆の精製に各地方独特の様式や技術が見られる。また、「塗師(ぬし)」とよばれる漆塗り職人によっても仕上がりに違いが出る。通常は蒔絵などの加飾を行わないため、他の漆器に比べて工程が少なく安価にでき、軽くて実用性が高い。板物(盆など)、曲物(菓子箱、重箱など)、挽物(茶托など)が多く、特殊な物として家具、仏壇などがある。
■ 遠藤宗家
遠藤市次郎遠藤宗家第十四代当主と妻よしの長男は、遠藤榮遠藤宗家第十五代当主。次男(壽)、長女(千代)、次女(君子)、三女(アサ)、四女(梅)。
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。
飛騨春慶の起源は、およそ四百年前の慶長年間(1596年~1615年)に、高山城下で社寺の造営に当たった名工高橋喜左衛門が、サワラの木目の美しさに心を打たれ、その木で蛤盆を作り、飛騨国高山藩の金森可重(ありしげ)第二代当主の長男である、金森重近(宗和流茶道の祖:金森宗和)に献上した。金森宗和は、御用塗師成田三右衛門に透き漆で塗り上げさせたところ、その色目が加藤景正の名陶「飛春慶の茶入」に似通っていたところから「春慶塗」と名付けられ、德川将軍家に献上されたと伝えられている。
甲賀百人組が習得した春慶塗は、漆塗の技法で製造された漆器である。主なものに、「日本三大春慶塗(日本三春慶)」と呼ばれる飛騨春慶(岐阜県高山市・飛騨市)、能代春慶(秋田県能代市)、粟野春慶(茨城県東茨城郡城里町)があり、その他伊勢春慶(三重県伊勢市)、木曽春慶(長野県木曽郡木曽町)などがある。
紅色または黄色で着色してできた木地の上に透明度の高い透漆を塗り上げ、表面の漆を通して木目の美しさが見えるようにしている。木目を見せるために下地等の補強をしない。そのため、木地の素材、扱い方に工夫を要する。素朴な技法をデザインで差異をつけることが追求され、木地や下地の色の選択、漆の精製に各地方独特の様式や技術が見られる。また、「塗師(ぬし)」とよばれる漆塗り職人によっても仕上がりに違いが出る。通常は蒔絵などの加飾を行わないため、他の漆器に比べて工程が少なく安価にでき、軽くて実用性が高い。板物(盆など)、曲物(菓子箱、重箱など)、挽物(茶托など)が多く、特殊な物として家具、仏壇などがある。
■ 遠藤宗家
遠藤市次郎遠藤宗家第十四代当主と妻よしの長男は、遠藤榮遠藤宗家第十五代当主。次男(壽)、長女(千代)、次女(君子)、三女(アサ)、四女(梅)。
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。