遠藤潔の活動報告

第十八代 遠藤宗家 遠藤潔

山王祭 神幸行列 

2024年06月05日
江戸時代から続く日枝神社(東京都千代田区永田町二丁目)の山王祭が、6月7日から始まる。初日の神幸祭は、王朝装束を身にまとった500人の祭礼行列が都心を練り歩く中心行事で、コロナ禍の中止を経て6年ぶりの開催となる。17日まで、さまざまな奉祝行事が行われる。

第三代将軍徳川家光公の時代から、江戸城内に入った御神輿を歴代の徳川将軍がご覧になる「天下祭」として伝統を持つ山王祭は、11日間に渡って「末社八坂神社例祭」「神幸祭」「境内茶園並狭山新茶奉納奉告祭」「氏子各町連合宮入」「献灯祭」「山王嘉祥祭」などが行われる。

特に一年おきに行われる「神幸祭」は、最長300mとなる王朝装束を身にまとった500人からなる祭列行列が都内中心を練り歩く迫力ある催しである。そのルートは永田町・四谷・麹町・九段・皇居・東京駅周辺・霞が関・銀座・日本橋など約23㎞に及び、東京一広い氏子地域を巡る山王祭最大の祭典である。

今年は、山王祭の復活を祝して「ゾウの山車」が御神輿とともに巡る。由来となるゾウは、享保十三年(1728年)にベトナムから長崎へ到着した。そこから京都を経由して、歩いて江戸までやってきてことが話題となった。第八代将軍徳川吉宗公の命により、江戸後期から附け祭の曳き物として、山王祭に登場するようになった。

山王祭を開催する日枝神社の歴史は、鎌倉時代に守護神として秩父重継が山王宮を祀ったことを起源とし、江戸城を築城した太田道灌公が文明十年(1478年)川越日枝神社を勧請したことから始まった。天正十八年(1590年)徳川家康公が江戸城を居城とする際には日枝神社を「徳川家の守り神」「江戸の産神」として崇敬するなど、江戸地域や徳川将軍家とかかわりが深い。徳川実紀によると寛永十二年(1635年)第三代将軍家光公が、江戸城天守閣の櫓の上から神幸行列をご覧になったと記されている。

祭礼行列が練り歩く神幸際は山王祭最大の盛儀で、本祭の時に斎行されてきた。江戸時代の行列は、神輿行列と山車行列で構成され、車行列は氏子の町々(百六十余町)単独または類で四十五組が組織されていた。五十本ほどの山車に各町会が趣向を凝らした附祭である踊り屋台や練り物が加わりとても華やかな行列だった。江戸城が皇居となったその大祭である山王祭は、豪華絢爛さや江戸城内の将軍の上覧があることなどから、神田祭と併せて「天下祭」「御用祭」と称されるようになった。現在では、皇居の守り神「皇城の鎮」として重んじられている。

明治時代になると電線など交通事情により山車や錦旗の通行が困難となり、神輿を担いで巡行するようになる。山王祭は、天保の改革や江戸幕府の滅亡、さらに東京大空襲によって神社が焼失したことで祭礼の中断に見舞われた。しかし、昭和二十七年(1952年)6月から再開され、現在に至るまで江戸時代からの伝統が守られ続けている。

現在は御鳳輦二基、宮神輿一基、山車六基をはじめ、王朝装束に身を包んだ氏子など総勢500人が300mにもおよぶ隊列が都心を練り歩くようになり、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような姿に圧倒される。

※画像:月岡芳年『月百姿 神事残月旧山王祭』


■ 太田道灌
栗原鉚三(石神井村村長)と妻セイ(貞明皇后女官)の子である孝子は、太田道灌公の子孫太田資英当主夫人。里子は、遠藤武遠藤宗家第十六代当主夫人。室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名である。官位:正五位下備中守、墓所:神奈川県伊勢原市大慈寺・神奈川県伊勢原市洞昌院、 戒名:大慈寺殿心円道灌大居士・香月院殿春苑静勝道灌大居士。

■ 遠藤宗家
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜る。遠藤姓の始まりは、遠江守(とおとうみのかみ=遠江国の国司の長官)に就任した藤原氏から起こったとされる。家紋は左三つ巴紋であり、「巴(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされている。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされる。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられた。遠藤左太夫を始祖とする遠藤宗家(旗本)は、甲賀百人武士。徳川将軍家 直参御目見得。明治元年(1868年)の明治維新以降、華族令の制定により明治十七年(1884年)に士族となり、第十五代当主遠藤榮(宮内庁 大正天皇侍従)を経て、第十六代当主遠藤武(陸軍省 近衛師団下士官・東京都 財務局公吏)、第十七代当主遠藤寛(辯護士)に至る。